葉を、三度目に聴いた途端、京吉はいきなり陽子をはなして、ものも言わずにそのアパートを飛び出して行った。

      十一

 アパートの玄関の石段にさっと降り掛った雨は、京吉の昂奮をすっかりさましてしまったが、しかし、
「おれ二度と陽子に会えなくなっちゃった!」
 という気持は、冷たく背筋を伝わった。
 陽子に挑んだのは、陽子はもう失われてしまったと信じ込んでいた京吉が、執拗に迫る嫉妬からのがれるためにきりひらく唯一の血路であり、また、失われたものをなつかしむ気持の逆説的なあらわれであったが、しかし、一つには、陽子は春隆に許したのだから、自分にも許してもいいだろうという現金な気持からでもあった。
 この現金な気持があったから、京吉は陽子が清かったことを知ると、さすがに自分のしようとしていた行為の醜さを、恥じたのだ。
 だから、逃げるように飛び出して来たのだが、もう二度と会わす顔がないと思うと、京吉はノコノコとまたアパートの中へ逆戻りして、陽子の部屋へ上って行った。
 部屋のドアはあいたままだった。閉めようともせず、陽子は部屋の中で泣き伏していた。しかし、泣き声はなかった。
 なぜ泣いているのか、京吉には判らなかったが、陽子自身にも判らなかった。恥かしい目に会おうとした悲しみか、京吉もまた自分を侮辱しようとしたのかという怒りか、抵抗の昂奮がさめたあとのすすり泣きか、びっくりしたように京吉が去って行ったあとの思いがけぬ寂しさか、自分をあわれみ、そしてまた京吉をあわれんでいたのか、どんな人間にもある憂愁のノスタルジアだろうか、ヒステリーか――何れにしても、女の涙は男はもちろん女にも判らない。
 陽子は京吉がはいって来た気配に、気がつくと、頭をあげて、涙を拭いた。けろりとした顔のようだった。が、声はキンキンと、
「何かご用……?」
「ううう? うん」
 口ごもったが、いきなり京吉は手を出して、
「――金かしてくれ。おれ宿屋へ泊る金ねえんだよ。掏られたんだよ」
 こんなに遅くなると、もう田村へ帰るのが怖かったのだ。陽子はハンドバッグを投げ出して、
「いるだけ、持ってらっしゃい」
「恐れ入りやの……」
 京吉はもう軽薄な口調になって、ハンドバッグから百円札を一枚抜きかけたが、ちょっと思案して、
「――じゃ、これだけ借りるよ」
 三百円手につかむと、陽子がふっと微笑したくらい無
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