いや僕ははじめからはだしでして……と言えるような作品を書きたいと思う。
僕はこれからはもう天邪鬼になって、新人がどれだけ巧い作品を書いても、感心しないことにする。泥だらけの靴やちびった下駄のままで書きまくった小説でなければもう感心しない。きちんと履物をそろえて書斎の中に端坐し、さて机の上の塵を払ってから、書き出したような作品に、もはや何の魅力があろう。
これまで、日本の文学は、俳句的な写実と、短歌的な抒情より一歩も出なかった。つまりは、もののあわれだ。「ファビアン」や「ユリシーズ」はもののあわれではない。もののあわれへのノスタルジアや、いわゆる心境小説としての私小説へのノスタルジアに憧れている限り文壇進歩党ははびこるばかりである。といって、自分たちの文学運動にただ「民主主義」の四字を冠しただけで満足しているような文壇社会党乃至文壇共産党の文学も、文壇進歩党の既成スタイルを打ち破るだけの新しいスタイルを生み出す努力をしなければ、いいかえれば作品の上で文壇進歩党に帽子を脱がすほどの新しさを生み出さねば、結局は文学運動に名をかりた一種の政治運動と少しも変らないということになる。
土足の
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