土足のままの文学
織田作之助
僕は終戦後間もなくケストネルの「ファビアン」という小説を読んだ。「ファビアン」は第一次大戦後の混乱と頽廃と無気力と不安の中に蠢いている独逸の一青年を横紙破りの新しいスタイルで描いたもので、戦後の日本の文学の一つの行き方を、僕はこの小説に見たと思った。終戦後大作家まで自分の作品を棚に上げたもっともらしい文学論を書いているが、凡百のそれらの文学論よりは「ファビアン」一冊の方が、どれだけ今後の文学の行き方を示しているか判らないくらいだ。
「ファビアン」を読んで、次にジョイスの「ユリシーズ」を読み、僕は更に新しい文学の行き方が判り、僕らの野心とは僕らの「ファビアン」を作ることであり僕らの「ユリシーズ」を作ることにあると納得した。
日本の習慣では、土足のままで家の中へはいらない。だから、文学も土足のまま人生の中へ踏み込んで行くような作品がない。きちんと下駄をぬぎ、文壇進歩党の代弁者である批評家から、下足札を貰って上るような作品しかない。「ファビアン」や「ユリシーズ」は土足のままの文学だ。僕は土足のままとまで行かなくても、せめて下足番から下駄を……と言われた時、
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