これからはもう自分の天下だ、弟子もふえるだろう、いや門前市をなすかも知れないと、彼は喜んだ。
ところがそのコンクールはかえって「津路の稽古はきびし過ぎる、あんな稽古をやられては助からぬ」というこれまでの悪評に、ますます拍車を掛けるような結果になった。誰も彼も庄之助の熟を敬遠した。そして弟子は減る一方で、塾はさびれ、彼の暮しは一層みじめなものになった。
そこで彼は、土地の軍楽隊に籍を置いたり、けちな管弦楽団の臨時雇の指揮をしたりして、口を糊《のり》しながら、娘の寿子を殆ど唯一人の弟子にして「津路式教授法」のせめてものはけ口を、幼い寿子に見出して来たのであった。
ところが、今日、寿子が弾いた「チゴイネルヴァイゼン」の素晴しさは、庄之助を驚かせた。それは天才的な閃きといってもいい位であった。
「こりゃ、もしかしたら大物になるかも知れないぞ」
と彼は思った。すると、元来熱狂し易い彼は、寿子を大物にするために、すべてを犠牲にしようと思った。
彼はヴァイオリン弾きとしての自分の恵まれぬ境遇を振りかえってみた。そして、自分の音楽への情熱と夢を、娘の寿子によって表現しようと、決心したのである。
「――そのためには、軍楽隊もやめます。指揮もやめます。そして、私の生活のすべてを犠牲にして、道なき道を歩みながら、寿子を日本一のヴァイオリン弾きに仕込みます」
氏神の前にそう誓ったのである。やがて、庄之助は長いお祈りを終えると、
「さア帰ろう」
と、寿子の小さな手を握った。ヴァイオリン弾きになるには、あまりにも小さ過ぎる手であった。
そして、庄之助はわき眼もふらずに、そわそわと歩きだした。
北向き八幡宮へも寄らなかった。露店の前にも立ち止らなかった。寿子は父の大股の足について行きながら、半泣きになっていた。冷やし飴一杯も飲まずに、家へ帰ると庄之助は昂奮した声で、怒鳴るように言った。
「さア寿子、稽古だ!」
三
乾いた雑巾から血を絞り取るような苦しい稽古が、その日から繰りかえされた。
学校から帰ると、寿子はもう父の手につかまえられて、ヴァイオリンを持たされた。そして、稽古は夜更くるまで続く日もあった。
覚えの悪い日は、ヴァイオリンを持って立たされていた。
寿子の身体は、古綿を千切って捨てたように、クタクタに疲れた。
昼間、教室の中で居眠りすることが
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