、また、
「こいつ、娘の成功に逆上して、可哀相に気が変になってしまったのか」
 と、考えてもみたが、結局は、何が何だかさっぱり訳が判らなかった。
 ただ、はっきり判ったことは、何だか腹の立つ男だということであった。で、相手は当然の如く、カンカンになって引き下った。
 演奏会の話も、レコード吹き込みの話も、そして映画出演の話も、こうして、すべて立ち消えになってしまった。
 やがて、父娘は大阪行きの汽車に乗った。車窓に富士が見えた。
「ああ、富士山!」
 寿子は窓から首を出しながら、こうして汽車に乗っている間は、ヴァイオリンの稽古をしなくてもいい、今日一日だけは自分は自由だと思うと、さすがに子供心にはしゃいで、
「富士は日本一の山……」
 と、歌うように言った。
「富士は日本一の山か。そうか」
 と、庄之助は微笑したが、やがて急にきっとした顔になると、
「――日本一のヴァイオリン弾き! 前途遼遠だ。今夜大阪へ帰ったらすぐ稽古をはじめよう」
 無心に富士を仰いでいる寿子の美しい横顔を見つめながら、ひそかに呟いた。美しいが、しかしやつれ果てて、痛々しい位、蒼白い横顔だった。きびしい稽古に苛め抜かれて来たことが、はっとするくらい庄之助には判り、チクチク胸が刺されるようだったが、しかし、今はもう以前にもまして苛め抜くより外に、愛情の注ぎようがないわけだと、庄之助の眼は残酷な光にふと燃えていた。



底本:「聴雨・蛍 織田作之助短篇集」ちくま文庫、筑摩書房
   2000(平成12)年4月10日第1刷発行
入力:桃沢まり
校正:松永正敏
2006年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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