気質などといふ形容では生ぬるい。将棋のほかには常識も理論もない人、――といふだけでも相当難物だが、しかもその将棋たるや、第一手に角頭の歩をつくといふ常識外れの、理論を無視したところが身上の人である。あれやこれやで、十六年間あらゆる新聞社が彼を引きださうとして失敗したのも、無理はなかつた。それを、読売新聞社が十個年間、春秋二回づつ根気よく攻め続けて、到頭口説き落したのである。
 十六年振りの対局といふだけでも、はや催し物としての価値は十分である。おまけに相手は当代の花形棋士、木村・花田両八段である。この二人は現に続行中の名人位獲得戦で第一、二位の成績ををさめ、名人位は十中八九この二人の間で争はれるだらうといふ情勢であつた。もし、この二人が坂田に敗れるとすれば、折角争ひ獲《と》つた名人位も有名無実なものとなつてしまふだらう。つまりは、坂田対両八段の対局は名人位の鼎《かなへ》の軽重を問ふものであつた。花田・木村としては負けるに負けられぬところであつた。一方、坂田にしても、十六年間の沈黙を破つて、いはゆる坂田将棋の真価をはじめて世に問ふ対局である。東京方への意地もあらう。一生一代の棋戦と言つても、あながちに主催新聞社の宣伝ばかりではなかつた。
「十六年間、一切の対局から遠ざかつてましたけど、その間一日として研究をせん日はおまへなんだ。ま、坂田の将棋を見とくなはれ。」と戦前豪語した手前でも負けられぬ将棋である。六十八歳の老人とは思へぬこの強い詞は、無論勝つ自信をほのめかした詞であらう。が、ひとつにはそれは、木村・花田を選手とする近代将棋に対して、坂田がいかに奇想天外の将棋を見せるか、見とくなはれといふ意味も含んでゐた。大衆はこの詞に唸つた。
 ともかく、昭和の大棋戦であつた。持時間からして各自三十時間づつ、七日間で指し終るといふ物々しさである。名人位獲得戦でさへも、持時間は十三時間づつ、二日で勝負をつけてゐる。対局場も一番勝負二局のうち、最初の一局の対木村戦は、とくに京都南禅寺の書院がえらばれて、戦前下見をした坂田が、
「勿体《もつたい》ないこつちや、勿体ないこつちや、これも将棋を指すおかげだす。」と言つたといふくらゐ、総|檜木《ひのき》作りの木の香《か》も新しい立派な場所であつた。
 けれども、私も京都に永らく居たゆゑ知つてゐるが、対局を開始した二月五日前後の京都の底冷えといふものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まつたかと思はれるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なほ坂田は六十八歳の老齢である。世話人が煖房に細心の気を使つたのはいふまでも無からう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局といふからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病といふこともある。対局場の寒さにうつかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが焚《た》かれ、なほ左右の両側には、火をかんかんおこした火鉢が一個づつ用意された。
 それを、六十八歳の坂田は、
「火鉢にあたるやうな暢気《のんき》な対局やおまへん。」と言つて、しりぞけたのである。このことを私は想ひ出したのだ。何故とくに想ひだしたのだらうか。
 木村には附添ひはなかつたが、坂田には玉江といふ令嬢が介添役として大阪から同行して来てゐた。妻に死なれたあとずつとやもめ暮しの父の身の廻りのことを、一切やつて来たといふひとである。対局中の七日間、両棋士はずつと南禅寺に罐詰めといふ約束であつた。ところが、坂田は老齢の上に、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさへ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなはぬのだ。そこで、対局中玉江といふ令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになつたのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、嫁《とつ》ぎもせず自分の面倒を見て来てくれた娘に、自分の将棋を見せるためでもあつた。
「お前もお父つあんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは辛《つろ》うてどんならんやろけど、言や言うもんの、わいにもわいの考へがあつて、来て貰《もろ》たんやぜ。わいはお前らの父親や言ふもんの、何ひとつ残してやる財産いふもんがない。せめて、お父つあんがどれだけ苦労して一生懸命に将棋指してるか、そこをよう見といてや。これがわいのたつた一つの遺産やさかい……」
 一手六時間といふまるで乾いた雑巾《ざふきん》から血を絞り出すやうな、父の苦しい長考を見て、到頭対局場に居たたまれず、隣りの部屋へ逃げ出した挙句、病気になつてしまつたといふ玉江に、坂田はこんな風に言つた。けれど、本当は坂田は死んだ細君にその将棋を見せてやりたかつたのではなからうか。細君の代り
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