ということになる。しかし「髪」という小説では、私は自分の長髪のために学校を棒に振ったと書いた。「私の髪の毛も長かったが、学校生活も長かった。私は余りの長さにいや気がさして、到頭学校をよしてしまった」と書いた。洒落である。学校生活を棒にしてしまったというのも、洒落だ。つまり落ちである。
「煙草が自分の身を亡ぼした」
 という一行の落ちで、自分の生涯を片づけてしまおうというこの試みは、一葉落ちて天下の秋を知るようなもので、一応気が利いていようが、趣向だけ目立って、真実性に乏しい。自分というものに対して、逃げを打っているのかもしれない。
 けれど、逃げずに、自分の生涯にまともに向い、これを克明に描写してみたところで、何になろう。私は平凡な人間である。平凡な人生を平凡な筆で正直にありのままに書くことが、作家として純粋だという考え方は、まるで文学のノスタルジアのように思われているが、自伝というものは、非凡な人間が語ってこそ興味があるので、われわれ凡人がポソポソと語って、何が面白かろう。しかし、われわれは結局自分のことを語りたいのである。してみれば、せめて聴き手のために、応接間に煙草の用意ぐらいは
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