あった。「市丸」という小料理屋の向って左隣りには「大天狗」という按摩屋で、天井の低い二階で五、六人の按摩がお互いに揉み合いしていた。右隣は歯科医院であった。
 その歯科医院は古びたしもた家で、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するのではないかと思われる。看板が掛っていなければ、誰もそんな裏長屋の古ぼけた家のようなそこを歯科医院とは思わぬであろう。屋根に、六つか七つぐらいの植木の小鉢が置いてあったのを見て私は、雁治郎横丁を想い出した。雁治郎横丁は千日前歌舞伎座横の食物路地であるが、そこにもまた忘れられたようなしもた家があって、二階の天井が低く、格子が暑くるしく掛っているのである。そしてまた二つ井戸の岩おこし屋の二階にも鉄の格子があって、そこで年期奉公の丁稚が前こごみになってしょんぼり着物をぬいでいたのである。そうした風景に私は何故惹きつけられるのか、はっきり説明出来ないのであるが、ただそこに何かしら哀れな日々の営みを感ずることはたしかである。はかなく哀れであるが、しかしその営みには何か根強いものがある。それを大阪の伝統だとはっきり断言することは敢てしないけれど、例えば日本橋筋四丁目の五会《ごかい》という古物露天店の集団で足袋のコハゼの片一方だけを売っているのを見ると、何かしら大阪の哀れな故郷を感ずるのである。

 東京にいた頃、私はしきりに法善寺横丁の「めをとぜんざい屋」を想った。道頓堀からの食傷通路と、千日前からの落語席通路の角に当っているところに「めをとぜんざい」と書いた大提灯がぶら下っていて、その横のガラス箱の中に古びたお多福人形がにこにこしながら十燭光の裸の電灯の下でじっと坐っているのである。暖簾をくぐって、碁盤の目の畳に腰掛け、めおとぜんざいを注文すると、平べったいお椀にいれたぜんざいを一人に二杯もって来る。それが夫婦《めおと》になっているのだが、本当は大きな椀に盛って一つだけ持って来るよりも、そうして二杯もって来る方が分量が多く見えるというところをねらった、大阪人の商売上手かも知れないが、明治初年に文楽の三味線引きが本職だけでは生計《くらし》が立たず、ぜんざい屋を経営して「めをとぜんざい屋」と名付けたのがその起原であるとき
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