大阪の憂鬱
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)商内《あきない》
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一
またしても大阪の話である。が、大阪の話は書きにくい。大阪の最近のことで書きたいような愉快な話は殆んどない。よしんばあっても、さし障りがあって書けない。
「音に聴く大阪の闇市風景」などという注文に応じてはみたものの、いそいそと筆を取る気になれないのである。
――と、こんな風にまえがきしなければ、近頃は文章が書けなくなってしまった。読者も憂鬱だろうが、私も憂鬱である。書かれる大阪も憂鬱であろう。
私の友人に、寝る前に香り高い珈琲を飲まなければ(飲めばの――誤植ではない)眠れないという厄介な悪癖の持主がいる。飲む方も催眠剤に珈琲を使用するようでは、全く憂鬱だろうが、そんな風に飲まれる珈琲も恐らく憂鬱であろう。
それと同じでんで、大阪を書くということは、例えば永井荷風や久保田万太郎が東京を愛して東京を書いているように、大阪の情緒を香りの高い珈琲を味うごとく味いながら、ありし日の青春を刺戟する点に、たのしみも喜びもあるのだ。かつて私はそうして来たのだ。私はまだ三十代の半ばにも達していないが、それでも大阪を書くということには私なりの青春の回顧があった。しかし、私はいま回顧談をもとめられているわけではない。
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「かたはらに秋草の花語るらく
ほろびしものはなつかしきかな」
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という牧水流の感情に耽ることも、許されていない。私の書かねばならぬのは、香りの失せた大阪だ。いや、味えない大阪だ。催眠剤に使用される珈琲は結局実用的珈琲だが、今日の大阪もついに実用的大阪になり下ってしまったのだろうか。
しかし大阪はもともと実用的だったとひとは言うだろう。違う。大阪以外の土地が非実用的すぎただけで、大阪には味も香もあったのだ。しかも、それはほかの土地よりも高かったのだと言えば、余りに身びいきになりすぎるかも知れないが、すくなくとも私は大阪は香りの高い、じっくりと味うべき珈琲だった筈だと、信じている。
もっとも、珈琲といえば、今日の大阪の盛り場(というのは、既にして闇市場のことだが)には、銀座と同じように、昔の香とすこしも変らぬモカやブラジルの珈琲を飲ませる店が随分出来ている。
しかし、私たちは、そんな珈琲を味うまえにまず、
「こんな珈琲が飲める世の中になったのか、しかし、どうして、こんな珈琲の原料が手にはいるんだろう」
と驚くばかりである。
といって、いたずらに驚いておれば、もはや今日の大阪の闇市場を語る資格がない。
一個百二十円の栗饅頭を売っている大阪の闇市場だ。十二円にしてはやすすぎると思って、買おうとしたら、一個百二十円だときかされて、胆をつぶしたという人がいるが、それくらいのことに驚いて胆をつぶすような神経では、大阪の闇市場に一歩はいればエトランジェである。一樽一万円の酒樽も売っているのだ。
「人を驚かせるが、自分は驚かないのが、ダンデイの第一条件だ」
という意味のことをボードレエルが言っているが、私たちはこの意味でのダンデイになることが、さしあたって狂人にならないための第一条件ではあるまいか。
それほど見るもの聴くものが、驚嘆すべきことばかりなのだ。しかも、驚嘆すべきことが、応接にいとまのないくらい、目まぐるしく表情を変えて、あわただしいテンポで私たちを襲っている昨日今日、いちいち莫迦正直に驚いていた日には、明日の神経がはや覚束ないのである。俗な言い方をすれば、驚いているひまもない。
二
「何でも売っている」
大阪の五つの代表的な闇市場――梅田、天六、鶴橋、難波、上六、の闇市場を歩いている人人の口から洩れる言葉は、異口同音にこの一言である。
思えば、きょうこの頃の日本人は、猫も杓子もおきまりの紋切型文句を言い、しかも、その紋切型しか言わなくなってしまったが、私は猫にも杓子にもなりたくないから、かえすがえすも紋切型を避けたいとは思う。しかし、大阪の闇市場のことを書くとすれば、やはり猫の如く、杓子の如く、いや鸚鵡の如くこの紋切型に負けてしまうのだ。
「何でも売っている」と。
なぜなら、大阪の闇市場の特色はこの一語に尽きるからである。
例えば主食を売っている。闇煙草を売っている。金さえ持って闇市場へ行けば、いつでも、たとえ夜中でも、どこかで米の飯が食べられるし、煙草が買えるのである。といえば、東京の人人は呆れるだろうか、眉をひそめるだろうか、羨ましがるだろうか。
勿論、警察の手入れはある。主食と闇煙草の販売を弾圧する旨の声明は、わざわざ何月何日よりと予告を発して、これまで十数回発表されたし、抜打ちの検挙も行われる。が依然として、街頭のパンやライスカレーは姿を消さず、また、梅田新道の道の両側は殆んど軒並みに闇煙草屋である。
六月十九日の大阪のある新聞に次のような記事が出ていた。
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「大阪曾根崎署では十九日朝九時、約五十名の制服警官をくり出して梅田自由市場の煙草販売業者の一斉取締りを断行、折柄の雑沓の中で樫棒、煉瓦が入れ交つての大乱闘が行はれ重軽傷者数名を出した。負傷者は直ちに北区大同病院にかつぎ込み加療中。
(目撃者の話)――この乱闘現場の情景を目撃してゐた一人、大和農産工業津田氏(仮名)は重傷に屈せず検挙に挺身した同署員の奮闘ぶりを次のやうに語つた。
――場所は梅田新道の電車道から少し入つた裏通りでした。一人の私服警官が粉煙草販売者を引致してゆく途中、小路から飛び出して来た数名がバラバラツと取りかこみ、各自手にした樫棒で滅茶苦茶に打ち素手の警官はたちまちぶつ倒れて水溜りに顔を突つ込んだ。死んだやうになつてゐた数秒、しかし再び意識をとり戻した彼が、勇敢にも駈け出した途端に両手に煉瓦を持つて待ちぶせてゐた一人が、立てつづけに二個の煉瓦を投げつけ、ひるむところをまたもや背後から樫棒で頭部を強打したため、かの警官はつひにのめるやうにぶつ倒れたのだ。
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ところが、この事件のあった二日後の同じ新聞には、既に次のような記事が出ているのだ。
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「流血の検挙をよそに闇煙草は依然梅田新道にその涼しい顔をそろへてをり、昨日もまた今日もあの路地を、この街角で演じられた検挙の乱闘を怖れる気色もなく、ピースやコロナが飛ぶやうに売れて行く。地元曾根崎署の取締りを嘲笑するやうに、今日もまた検挙網のど真中で堂堂と煙草を売つてゐる一人の闇商人曰く――
警察や専売局がいくら自由市場の煙草を取締つても無駄ですよ。専売局自身が倉庫から大量持ち出して、横流しをしてるんですからねえ」
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東京の人人はこの記事を読んで驚くだろうが、しかし私は驚かない。私ばかりではない。大阪の人はだれも驚かないだろう。
そしてまた次のことにも驚かない。
最近大阪の闇市場では「警戒警報」「空襲警報」という言葉が囁かれている。しかし戦争中の話をしているのではない、警察の手入れのことを「警報」という隠語で伝達しているのである。どんなに極秘にされた抜打ちの手入れでも、事前に洩れる。これが「警戒警報」だ。当日いよいよ手入れが始まると、直ちに「空襲警報」が飛ぶというわけだ。
右の六月十九日の検挙は、曾根崎署だけでなく、府下一斉に行われ、翌日もまたくりかえされたのだが、梅田でもやはり「警報」が出た。しかし、さすがに逃げおくれた連中がいて、押収された煙草は二日間合計して、十五万本だということである。
逃げおくれた連中だけで十五万本、だから大阪全体でどれだけの横流し(などといやらしい紋切型言葉だが)の煙草があるか、想像も出来ないくらいだ。
ある皮肉屋が言っていた。
「近頃刻み煙草の配給しかないのは、専売局で盗難用の光やきんしを倉庫にストックして置かねばならぬからだ」と。
更に、べつの皮肉屋の言うのには、
「七月一日から煙草が値上りになるのは、たびたびの盗難による専売局の赤字を埋めるためだ」と。
それほど盗難が多いし、また闇商人が語っているように、横流しが多いのだ。そして、それが闇市場でまるで新聞を売るように堂堂と売られて、まるで新聞を買うように簡単に人人が買って行くのが大阪なのだ。
奇妙なことには、この闇煙草の値は五つの闇市場を通じて、ちゃんと統制されているが、日によって異動がある。つまり相場の上下がある。そして、その相場はたった一人の人間(つまり親分)が毎朝決定して、その指令が五つの闇市場へ飛び、その日の相場の統制が保たれるらしい――という話を、私はきいたが、もしそうだとすれば、そのたった一人の人間の統制力というものは、この国の政府の統制力以上であり、むしろ痛快ではないか。
三
私は目下京都にいて、この原稿を書いているが、焼けた大阪にくらべて、焼けなかった京都の美しさは悲しいばかりに眩しいような気がしてならない。
京都はただでさえ美しい都であった。が、焼けなかった唯一の都会だと思えば、ことにみじめに焼けてしまった灰色の大阪から来た眼には、今日の京都はますます美しく、まるで嘘のようであり、大阪の薄汚なさが一層想われるのである。
月並みなことを月並みにいえば、たしかに大阪の町は汚ない。ことに闇市場の汚なさといっては、お話にならない。今更言ってみても仕様がないくらい汚ない。わずかに、中之島界隈や御堂筋にありし日の大阪をしのぶ美しさが残っているだけで、あとはどこもかしこも古雑巾のように汚ない。おまけに、ややこしい。
「ややこしい」という言葉を説明することほどややこしいものはない。複雑、怪奇、微妙、困難、曖昧、――などと、当てはめようとしてもはまらぬくらい、この言葉はややこしいのだ。
「あの銀行はこの頃ややこしい」
「あの二人の仲はややこしい仲や」
「あの道はややこしい」
「玉ノ井テややこしいとこやなア」
「ややこしい芝居や」
みんな意味が違うのだ。そしてその意味を他の言葉で説明する事は出来ないのだ。
しかし敢て説明するならば、すくなくとも私にとって最近の大阪が「ややこしい」のは例えば梅田の闇市場を歩いていても、どこをどう通ればどこへ抜けられるのか、さっぱり見当がつかず、何度行ってもまるで迷宮の中へ放り込まれたような気がするという不安な感じがするという意味である。
かつて私は大阪のすくなくとも盛り場界隈だけは、どこの路地を抜ければ何屋があり、何屋の隣に何屋があるということを、隅隅まで知っていた。大阪の町を歩いて道に迷うようなことはなかった。ところが、梅田あたりの闇市場では既にして私は田舎者に過ぎない。旅馴れぬ旅行者のように、早く駅前へ出ようとうろうろする許りである。顔見知りもいない。
よしんば知人に会うても、彼もまたキョロキョロと旅行者のような眼をしているのである。
いわば、勝手の違う感じだ。何か大阪に見はなされた感じなのだ。追ん出てしまった古女房が鉱山師か土木建築師の妾に収まって、へんに威勢よく、取りつく島もないくらい幅を利かしているのに出会った感じだと、言ってもよい。勝手にしやがれと、そっぽを向くより致し方がない。しかし、コテコテと白粉をつけていても、ふと鼻の横の小さなホクロを見つけてみれば、やはり昔なつかしい古女房である。
たとえば、この間、大阪も到頭こんな姿になり果てたのかと、いやらしい想いをしながら、夜の闇市場で道に迷っている時、ふと片隅の暗がりで、蛍を売っているのを見た。二匹で五円、闇市場の中では靴みがきに次ぐけちくさい商内《あきない》だが、しかし、暗がりの中であえかに瞬いている青い光の暈のまわりに、夜のしずけさがしのび寄っているのを見た途端、私はそこだけが闇市場の喧騒からぽつりと離れて、そこだけが薄汚い、ややこしい闇市場の中で、唯一の美しさ――まるで忘れら
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