日の青春を刺戟する点に、たのしみも喜びもあるのだ。かつて私はそうして来たのだ。私はまだ三十代の半ばにも達していないが、それでも大阪を書くということには私なりの青春の回顧があった。しかし、私はいま回顧談をもとめられているわけではない。
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「かたはらに秋草の花語るらく
ほろびしものはなつかしきかな」
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という牧水流の感情に耽ることも、許されていない。私の書かねばならぬのは、香りの失せた大阪だ。いや、味えない大阪だ。催眠剤に使用される珈琲は結局実用的珈琲だが、今日の大阪もついに実用的大阪になり下ってしまったのだろうか。
しかし大阪はもともと実用的だったとひとは言うだろう。違う。大阪以外の土地が非実用的すぎただけで、大阪には味も香もあったのだ。しかも、それはほかの土地よりも高かったのだと言えば、余りに身びいきになりすぎるかも知れないが、すくなくとも私は大阪は香りの高い、じっくりと味うべき珈琲だった筈だと、信じている。
もっとも、珈琲といえば、今日の大阪の盛り場(というのは、既にして闇市場のことだが)には、銀座と同じように、昔の香とすこし
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