も変らぬモカやブラジルの珈琲を飲ませる店が随分出来ている。
しかし、私たちは、そんな珈琲を味うまえにまず、
「こんな珈琲が飲める世の中になったのか、しかし、どうして、こんな珈琲の原料が手にはいるんだろう」
と驚くばかりである。
といって、いたずらに驚いておれば、もはや今日の大阪の闇市場を語る資格がない。
一個百二十円の栗饅頭を売っている大阪の闇市場だ。十二円にしてはやすすぎると思って、買おうとしたら、一個百二十円だときかされて、胆をつぶしたという人がいるが、それくらいのことに驚いて胆をつぶすような神経では、大阪の闇市場に一歩はいればエトランジェである。一樽一万円の酒樽も売っているのだ。
「人を驚かせるが、自分は驚かないのが、ダンデイの第一条件だ」
という意味のことをボードレエルが言っているが、私たちはこの意味でのダンデイになることが、さしあたって狂人にならないための第一条件ではあるまいか。
それほど見るもの聴くものが、驚嘆すべきことばかりなのだ。しかも、驚嘆すべきことが、応接にいとまのないくらい、目まぐるしく表情を変えて、あわただしいテンポで私たちを襲っている昨日今日、いちいち莫迦正直に驚いていた日には、明日の神経がはや覚束ないのである。俗な言い方をすれば、驚いているひまもない。
二
「何でも売っている」
大阪の五つの代表的な闇市場――梅田、天六、鶴橋、難波、上六、の闇市場を歩いている人人の口から洩れる言葉は、異口同音にこの一言である。
思えば、きょうこの頃の日本人は、猫も杓子もおきまりの紋切型文句を言い、しかも、その紋切型しか言わなくなってしまったが、私は猫にも杓子にもなりたくないから、かえすがえすも紋切型を避けたいとは思う。しかし、大阪の闇市場のことを書くとすれば、やはり猫の如く、杓子の如く、いや鸚鵡の如くこの紋切型に負けてしまうのだ。
「何でも売っている」と。
なぜなら、大阪の闇市場の特色はこの一語に尽きるからである。
例えば主食を売っている。闇煙草を売っている。金さえ持って闇市場へ行けば、いつでも、たとえ夜中でも、どこかで米の飯が食べられるし、煙草が買えるのである。といえば、東京の人人は呆れるだろうか、眉をひそめるだろうか、羨ましがるだろうか。
勿論、警察の手入れはある。主食と闇煙草の販売を弾圧する旨の声明は、わざわざ何月
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