み散らし、ころっと忘れてしまった人の方が、新しい文章が書けるのではあるまいか。手本が頭にはいりすぎたり、手元に置いて書いたり、模倣これ努めたりしている人たちが、例えば「殺す」と書けばいいところを、みんな「お殺し」と書いたりすれば、まことにおかしな[#「な」は底本では判読不可。268−上−8]ことではないか。

 話は外れたが、書きにくい会話の中でも、大阪弁ほど書きにくいものはない。大阪に生れ大阪に育って小説を勉強している人でも、大阪弁が満足に書けるとは限らないのだ。平常は冗談口を喋らせると、話術の巧さや、当意即妙の名言や、駄洒落の巧さで、一座をさらって、聴き手に舌を巻かせてしまう映画俳優で、いざカメラの前に立つと、一言も満足に喋れないのが、いるが、ちょうどこれと同様である。しかし、平常は無口でも、いざとなればべらべらとこなして行くのが年期を入れた俳優の生命で、文壇でも書きにくい大阪弁を書かせてかなり堂に入った数人の作家がいる。
 しかし、その作家たちの書いている大阪弁を読むと、同じ書き方をしている作家は一人もいない。大阪弁には変りはないのだが、文章が違うように、それぞれ他の人とは違って
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