じ土地の言葉とは思えぬくらい違っているのだ。「卍」はいつもの饒舌癖がかえって大阪の有閑マダムがややこしく入り組んだ男女関係のいきさつを判らせようとして、こまごまだらだらと喋っているという効果を出しているし、大阪弁も女専の国文科を卒業した生粋の大阪の娘を二人まで助手に雇って、書いたものだけに、実に念入りに大阪弁の特徴を生かそうとしているし、ことに大阪の女の言葉の音楽的なリズムの美しさはかなり生かされていて、この作品を全部大阪弁で書こうとした作者の意図は成功している。しかしこの小説の大阪弁は紋切型の大阪弁ではないまでも、何か標準型の大阪弁というような気がする。普通大阪の人たちが使っている大阪弁はもっと形のくずれたものであって、このような標準型の大阪弁で喋っている人は殆んどいない。これは美化され、理想化された大阪弁であって、隅から隅まで大阪弁的でありたいという努力が、かえって大阪弁のリアリティを失っているように思われる。その点宇野氏の「長い恋仲」は大阪弁の音楽的美しさは感じられないが、一種トボけた味がある。ことに、東京で美術学校生活を送ったことのある一種のインテリであり、芸術家であるという男が、独得の大阪弁で喋っているというところに面白さがあるが、しかし、この作品はまだ大阪弁の魅力が迫力を持っているとはいえず、むしろ「楽世家等」などの余り人に知られていない作品の中に、大阪弁の魅力が溌剌と生かされた例があるといえよう。大阪弁というものは語り物的に饒舌にそのねちねちした特色も発揮するが、やはり瞬間瞬間の感覚的な表現を、その人物の動きと共にとらえた方が、大阪弁らしい感覚が出るのではなかろうか。大阪弁は、独自的に一人で喋っているのを聴いていると案外つまらないが、二人乃至三人の会話のやりとりになると、感覚的に心理的に飛躍して行く面白さが急に発揮されるのは、私たちが日常経験している通りである。
 谷崎氏の「細雪」は大阪弁の美しさを文学に再現したという点では、比類なきものであるが、しかし、この小説を読んだある全くズブの素人の読者が「あの大阪弁はあら神戸言葉や」と言った。「細雪」は大阪と神戸の中間、つまり阪神間の有閑家庭を描いたものであって、それだけに純大阪の言葉ではない。大阪弁と神戸弁の合の子のような言葉が使われているから、読者はあれを純大阪の言葉と思ってはならない。そういえば、宇野氏
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