る客がびっくりするほどの大きな声で、早口に喋った。
しかし、パラパラと並べられてある書物や雑誌の数は、中学生の書棚より貧弱だった。店の真中に立てられている「波屋書房仮事務所」という大きな標札も、店の三分の二以上を占めている標札屋の商品の見本かと見間違えられそうだった。
「あ、そうそう、こないだ、わてのこと書きはりましたなア。殺生だっせエ」
参ちゃんは思いだしたようにそう言ったが、べつに怒ってる風も見えず、
「――花屋のおっさんにもあの雑誌見せたりました」
「へえ? 見せたのか」
「花屋も防空壕の上へトタンを張って、その中で住んだはりま。あない書かれたら、もう離れとうても千日前は離れられんいうてましたぜ」
そう聴くと、私はかえって「花屋」の主人に会うのが辛くなって、千日前は避けて通った。焼け残ったという地蔵を見たい気も起らなかった。もう日本の敗北は眼の前に迫っており、「波屋」の復活も「花屋」のトタン張り生活も、いつ何時《なんどき》くつがえってしまうかも知れず、私は首を垂れてトボトボ歩いた。
帰りの電車で夕刊を読むと、島ノ内復興聯盟が出来たという話が出ていて、「浪花ッ子の意気」いう見出しがついていたが、その見出しの文句は何か不愉快であった。私は江戸ッ子という言葉は好かぬが、それ以上に浪花ッ子という言葉を好かない。焦土の中の片隅の話をとらえて「浪花ッ子の意気」とは、空景気もいい加減にしろといいたかった。「起ち上る大阪」という自分の使った言葉も、文章を書く人間の陥り易い誇張だったと、自己嫌悪の念が湧いて来た。
四
ところが、戦争が終って二日目、さきに「起ち上る大阪」を書いた同じ週刊雑誌から、終戦直後の大阪の明るい話を書いてくれと依頼された時、私は再び「花屋」の主人と参ちゃんのことを書いた。言論の自由はまだ許されておらなかったし、大阪復興の目鼻も終戦後二日か三日の当時ではまるきり見当がつかず、長い戦争の悪夢から解放されてほっとしたという気持よりほかに書きようがなかったので「花屋」のトタン張りの壕舎にはじめて明るい電燈がついて、千日前の一角を煌々と照らしているとか、参ちゃんはどんな困苦に遭遇しても文化の糧である書籍を売ることをやめなかったとか、毒にも薬にもならぬ月並みな話を書いてお茶をにごしたのである。
そして、そんな話しか書けぬ自分に愛想がつきてしまった。私は元来実話や美談を好かない。歴史上の事実を挙げて、現代に照応させようとする態度や、こういう例があるといって、特殊な例を持ち出して、全体を押しはかろうとする型の文章や演説を毛嫌いする。ところが、私は「花屋」の話や参ちゃんの話を強調して、無理矢理に大阪の前途の明るさをほのめかすというバラック建のような文章を書いてしまったのだ。はっきり言えば、ものの一方しか見ぬリアリティのない文章なのだ。「花屋」の壕舎も「波屋」の軒店もただ明るいというだけでは済まされぬ。むしろ悲しい大阪の姿かも知れない。私はその悲しさを見て見ぬ振りした自分の美談製作気質にいや気がさしたのである。
それから四ヵ月がたち、浮浪者とインフレと闇市場の噂に昭和二十年が慌しく暮れて行き、奇妙な正月が来た。
三※[#小書き濁点付き片仮名カ、331−上−14]日は一歩も外へ出なかった私も、三※[#小書き濁点付き片仮名カ、331−上−14]日が済むと、はじめて外出し、三月振りに南へ出掛けた。レヴュの放送を聴いて、大阪劇場の裏で殺されていた娘のことを思いだしたためだろうか、一つには「波屋」へ行って、新しく出た雑誌の創刊号が買いたかったのだ。
難波へ出るには、岸ノ里で高野線を本線に乗りかえるのだが、乗りかえが面倒なので、汐見橋の終点まで乗り、市電で戎橋まで行った。
戎橋の停留所から難波までの通りは、両側に闇商人が並び、屋号に馴染みのないバラックの飲食店が建ち、いつの間にか闇市場になっていた。雑閙に押されて標札屋の前まで来た時、私はあっと思った。標札屋の片店を借りていた筈の「波屋」はもうなくなっていたのである。中学生の本箱より見すぼらしい本屋ではとても立ち行かぬと思って、商売がえでもしたのだろうかと、私はさすがに寂しく雑閙に押されていた。
戎橋筋の端まで来て、私は南海通へ折れて行った。南海通にもあくどいペンキ塗りのバラックの飲食店や闇商人の軒店や街頭賭博屋の屋台が並んでいて、これが南海通かと思うと情けなく急ぎ足に千日前へ抜けようとすると、続けざまに二度名前を呼ばれた。声のする方をひょいと見ると、元「波屋」があった所のバラックの中から、参ちゃんがニコニコしながら呼んでいるのだ。元の古巣へ帰って、元の本屋をしているのだった。バラックの軒には「波屋書房芝本参治」という表札が掛っていた。
「やア、帰ったね」
さすがになつかしく、はいって行くと、参ちゃんは帽子を取って、
「おかげさんでやっと帰れました。二度も書いてくれはりましたさかい、頑張らないかん思て、戦争が終ってすぐ建築に掛って、やっと去年の暮れここイ帰って来ましてん。うちがこの辺で一番はよ帰って来たんでっせ」
と、嬉しそうだった。お内儀さんもいて、「雑誌に参ちゃん、参ちゃんて書きはりましたさかい、日配イ行っても、参ちゃん参ちゃんでえらい人気だっせ」
そしてこちらから言いだす前に「改造」や「中央公論」の復刊号を出してくれた。
「文春は……?」
「文芸春秋は貰ったからいい」
「あ、そうそう、文春に書いたはりましたな。グラフの小説も読みましたぜ。新何とかいうのに書いたはりましたンは、あ、そうそう、船場の何とかいう題だしたな」
お内儀さんは小説好きで、昔私の書いたものが雑誌にのると、いつもその話をしたので、ほかの客の手前赤面させられたものだったが、しかし、今そんな以前の癖を見るのもなつかしく、元の「波屋」へ来ているという気持に甘くしびれた。本や雑誌の数も標札屋の軒店の時よりははるかに増えていた。
「波屋」を出て千日前通へ折れて行こうとすると、前から来た男からいきなり腕を掴まれた。みると「花屋」の主人だった。
「花屋」の主人は腕を離すと妙に改まって頭を下げ、
「頑張らせて貰いましたおかげで、到頭元の喫茶をはじめるところまで漕ぎつけましてん。今普請してる最中でっけど、中頃には開店させて貰いま」
そして、開店の日はぜひ招待したいから、住所を知らせてくれと言うのである。住所を控えると、
「――ぜひ来とくれやっしゃ。あんさんは第一番に来て貰わんことには……」
雑誌のことには触れなかったが、雑誌で激励された礼をしたいという意味らしかった。
二つとも私自身想いだすのもいやな文章だったが、ひょんなところで参ちゃんと「花屋」の主人を力づける役目をしたのかと思うと、私も、
「ぜひ伺います」
と、声が弾んで、やがて「花屋」の主人と別れて一人歩く千日前の通はもう私の古里のようであった。この二人に同時に会えたというのも偶然といえば偶然だが、しかしそれだけに千日前が身近かに寄って来たという感じだった。
焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって吉本の興行が掛っていた。
その常盤座の前まで、正月の千日前らしい雑閙に押されて来ると、またもや呼び停められた。
見れば、常盤座の向いのバラックから「千日堂」のお内儀さんがゲラゲラ笑いながら私を招いているのだった。
「やア、あんたとこも……」
帰って来たのかとはいって行くと、
「素通りする人がおますかいな。あんたはノッポやさかい、すぐ見つかる」
首だけ人ごみの中から飛び出ているからと、「千日堂」のお内儀さんは昔から笑い上戸だった。
「あはは……。ぜんざい屋になったね」
「一杯五円、甘おまっせ。食べて行っとくれやす」
「よっしゃ」
「どないだ、おいしおますか。よそと較べてどないだ? 一杯五円で値打おますか」
「ある。甘いよ」
しかし砂糖の味ではなかった。そのことをいうと、
「ズルチンつこてまんねン。五円で砂糖つこたら引き合えまへん。こんなちっちゃな餅でも一個八十銭つきまっさかいな。小豆も百二十円になりました」
京都の闇市場では一杯十円であった。
「あんたとこは昔から五割安だからね」
というと、お内儀さんはうれしそうに、
「千日堂の信用もおますさかいな、けったいなことも出来しめへん。――まアこの建物見とくなはれ。千日前で屋根瓦のあるバラックはうちだけだっせ。去年の八月から掛って、やっと暮の三十一日に出来ましてん。元日から店びらきしょ思て、そら天手古舞しましたぜ」
場所がいいのか、老舗であるのか、安いのか、繁昌していた。
「珈琲も出したらどうだね。ケーキつき五円。――入口の暖簾は変えたらどうだ、ありゃまるでオムツみたいだからね」
私は出資者のような口を利いて「千日堂」を出た。
「チョイチョイ来とくなはれ」
「うん。来るよ」
千日前へ来るのがたのしみになったよと、昔馴染に会うたうれしさに足も軽く私は帰った。
ところが、四五日たったある朝の新聞を見ると、ズルチンや紫蘇糖は劇薬がはいっているので、赤血球を破壊し、脳に悪影響がある、闇市場で売っている甘い物には注意せよという大阪府の衛生課の談話がのっていた。
私は「千日堂」はどうするだろうか、砂糖を使うだろうか、砂糖を使って引き合うだろうか、第一そんなに沢山砂糖が入手できるだろうかと心配した。「花屋」も元の喫茶店をやるそうだが、やはり、ズルチンを使うのだろうかと、ついでに「花屋」のことも気になった。
しかし翌日、再び千日前へ行くと、人々はそんな新聞の記事なぞ無視して、甘いものにむらがっていた。「千日堂」のぜんざいも食べてみると後口は前と同じだった。しかし人々は平気で食べている。私はズルチンの危険を惧れる気持は殆んどなかった。
私たちはもうズルチンぐらい惧れないような神経になっていたのか。ズルチンが怖いような神経ではもう生きて行けない世の中になっているのか。
千日前へ行くたびに一度あの娘の地蔵へ詣ってやろうと思いながら、いつもうっかりと忘れてしまうのだった。
底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「文明 春季号」
1946(昭和21)年4月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月13日作成
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