げようとしなかった。
それほどのレヴュ好きの彼女が、死後四日間も楽屋裏の溝の中にはいっていたとは何かの因縁であろう。溝のハメ板の中に屍体があるとは知らず、女優たちは毎日その上を通っていたのである。娘としては本望であったかも知れない。
しかし、事件が新聞に出ると、大阪劇場の女優たちは気味悪がった。「花屋」へ来る女優たちは皆その娘の噂をしていた。いつも一階の前から三筋目の同じ席に来ていたので、いつか顔を見知っていただけに、一層実感が迫るのであろう。
「皆で金出し合うて、地蔵さんを祀ったげよか」
「そやそや、それがええ。祀ったげぜ、祀ったげぜ」
そんな話をしている隣のテーブルでは、ピエルボイズの男優たちが、弥生座の楽屋から見える連込宿の噂をしていた。連込宿の二階の窓にはカーテンが掛っているが、彼等は楽屋の窓から突き出した長い竿の先で、そっとそのカーテンをあけると内部の容子が手にとるように見えるというのであった。彼等は舞台の合間にその楽屋に上って来ては、宿の二階を覗く。何にも知らぬ若いレヴュガールを無理矢理その楽屋の窓へ連れて来て、見せると、泣きだす娘がある――その時の噂をしていた。
「チャー坊はまだ子供だからな」
「そうかな。俺アもうチャー坊は一切合財知ってると思ってたんだが……」
「しかし、まだ十七だぜ」
「十七っていったって、タカ助の奴なんざア、あら、今夜はシケねなんて、仰有ってやがらア。きゃつめ、あの二階を見るのがヤミつきになりやがって、太えアマだ」
「太えアマは昨日の娘だ。ありゃまだ二十前だぜ」
「二十前でも男をくわえ込むさ」
「ところが、一糸もまとわぬというんだから太えアマだ」
「淫売かも知れねえ」
「莫迦、淫売がそんな自堕落な、はしたないことをするもんか。素人にきまってらア」
「きまってるって、ははあん、こいつ、一糸もまとわさなかった覚えがあるんだな。太え野郎だ」
そんなみだらな話を聴いていると、ふと私は殺された娘のことが想い出された。楽屋裏の溝の中で死んでいたのは、レヴュ好きの彼女には本望であったかも知れないなどとは、いい加減な臆測だ。犯されたままの恥しい姿で横たわっているのは、殺されるよりも辛いことであったに違いない……。
「花屋」を出ると、私は手拭を肩に掛けたまま千日前の通りをブラブラ歩いて、常盤座の前の「千日堂」で煙草を買った。
「千日堂」は煙草も売っているが、飴屋であった。間口のだだっ広いその店の屋根には「何でも五割安」という看板が掛っていて、「五割安」という名前の方が通っていた。夏は冷やし飴も売り、冬は※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]巻きを焼いて売っていたが、飴がこの店の名物になっていて、早朝から夜更くまで売れたので、店の戸を閉める暇がなく、千日前で徹夜をしているたった一軒の店であった。
「千日堂」でも殺された娘の噂をしていた。
「毎日飴買いに来てました。いや、きっとあの娘はんに違いおまへん」
買って来た飴をしゃぶりながら、安宿の煎餅蒲団にくるまって、レヴュのプログラムを眺めていたのかと、私は不憫に思った。
その「五割安」の飴は、私も子供の頃買ったことがある。その頃千日前で尾上松之助の活動写真を上映しているのは、「千日堂」の向いの常盤座であった。上町に住んでいた私は、常盤座の番組の変り目の日が来ると、そわそわと源聖寺《げんしょうじ》坂を降りて、西横堀川に架った末広橋を渡り、黒門市場を抜けて千日前へかけつけると、まず「千日堂」で二銭の紫蘇《しそ》入りの飴を買うてから常盤座へはいるのだった。その飴はなめていると、ふっと紫蘇の香が漂うて、遠い郷愁のようだった。
紫蘇入りの飴には想出がある。京都の高等学校へはいった年のある秋の夜、私ははじめて宮川町の廓で一夜を明かした。十二時過ぎから行くと三円五十銭で泊れると聴いたので、夜更けの京極や四条通をうろうろして時間を過し、十二時になってから南座の横の川添いの暗い横丁へ折れて行った。暗い道を一丁行き、左へ五六間折れると、もうそこは宮川町の路地で、赤いハンドバッグをかかえた妓がペタペタと無気力な草履の音を立てて青楼の中へはいって行くのを見た途端、私はよほど引き返そうと思ったが、もうその時には私の黒マントの端が、
「貫一つぁん、お上りやす」
と掴まれていた。高等学校の生徒だから金色夜叉の主人公の名で呼んだのであろうと思いながら、私はズルズルと引き上げられた。
「お馴染みはんは……?」
「ない」
「ほな、任しとくれやすか」
「うん」
私は乾いた声で言って、塩の味のする茶を飲んだ。
「ほな、おとなしい、若いええ妓《こ》呼んで来まっさかい、お部屋で待っとくれやすか」
「うん」
通されたのは三階の、加茂川に面した狭い三畳の薄汚い部屋だった。鈍い裸電燈が薄暗くともっている。
「ここでねンねして、待ってとくれやす。直きお出《い》やすさかい」
垢だらけの白い敷蒲団の上に赤い模様の掛蒲団が、ぺったりと薄く汚くのっていた。まるで自動車にひかれた猫の死骸のような寝床であった。
「うん」
答えたものの、さすがにその中へはいる気はせず、私は川に面した廊下へ出て、煙草を吸いながら、妓《おんな》の来るのを待った。
そこからは加茂川の河原が見え、靄に包まれた四条通の灯がぼうっと霞んで、にわかに夜が更けたらしい遠い眺めだった。私はやがて汚れて行く自分への悔恨と郷愁に胸を温めながら、寒い川風に吹かれて、いつまでも突っ立っていた。京阪電車のヘッドライトが眼の前を走って行った。その時、階段を上って来る跫音が聴えた。
「おおけに、お待っ遠さんどした。カオルはんどす」
という声に振り向くと、色の蒼白い小柄な妓が急いで階段を上って来たのであろう、ハアハア息を弾ませて、中腰のまま、
「おおけに……」
と頭を下げた。すえたような安白粉の匂いがプンとした。
「まア、廊下イ出とういやしたんだか。寒おっせ。はよ閉めて、おはいりやすな」
そして、「――ほな、ごゆっくり……」と遣手が下へ降りると、妓はぼそんと廊下へ来て私の傍へ並んで立つと、袂の中から飴玉を一つ取り出して、黙って私の掌へのせた。
「なんだ、これ。――ああ飴か」
「昼間京極で買うたんどっせ」
「京極へ活動見に行ったの?」
「ううん」
と、細い首を振って、
「飴買いに行ったんどっせ」
「飴買いに……? 飴だけ買うたの? あはは……」
ふっと安心できる風情だった。放蕩の悔恨は消え、幼な心に温まって、私はその飴玉を口に入れた。紫蘇の味がした。
「おや、こりゃ紫蘇入りだね」
「美味《おいし》おっしゃろ?」
妓はすり寄って来た。私はいきなり抱き寄せて、妓の口へ飴を移した。
……川の音で眼を覚した。ふと傍を見ると、妓はまだ眠れぬらしく、飴をしゃぶりながら婦人雑誌の口絵を見ていた。
「君は飴が好きだね」
「好きどっせ。こんどお出やす時、飴持って来とおくれやすか」
「うん。持って来る」
そう言ったが、私はそれ切りその妓に会わなかった。――
大阪劇場の裏で殺されていた娘が「千日堂」へ飴を買いに来たと聴いた時、私はその妓のことを想い出したのである。
妓の肢は痩せて色が浅黒かった。殺された娘も色の黒い娘だったという。金で買うたというものの、私は妓を犯したのだ。飴をくれるような優しい妓の心を欺したのだ。私の悔恨は殺された娘の上へ乗り移り、洋菓子やチョコレエトを買わず、駄菓子の飴を買うて、それでわびしい安宿の仮寝の床の寂しさをまぎらしていたところに、その娘の悲しい郷愁が感じられるような気がし、ふと私は子守歌を聴く想いだった。
死んでから四日も人に知られずに横たわっていたのも、その娘らしい悲しさだった。
大阪劇場の女優たちが間もなく楽屋裏の空地の片隅に、その娘の霊を葬う地蔵を祀ったと聴いた時、私はわざわざ線香を上げに行った。
三
戦争がはじまると、千日前も急にうらぶれてしまった。
千日前の名物だった弥生座のピエルボイズも戦争がはじまる前に既に解散していて、その後弥生座はセカンド・ランの映画館になったり、ニュース館に変ったり、三流の青年歌舞伎の常打小屋になったりして、千日前の外れにある小屋らしくうらぶれた落ちぶれ方をしてしまった。
小綺麗な「花屋」も薄汚い雑炊食堂に変ってしまった。
「浪花湯」も休んでいる日が多く、電気風呂も東京下りの流しも姿を消してしまった。
「千日堂」はもう飴を売らず、菱の実を売ったり、とうもろこしの菓子を売ったり、間口の広い店の片隅を露天商人に貸して、そこではパンツのゴム紐や麻の繩紐を売ったりしていた。向いの常盤座は吉本興業の漫才小屋になっていた。
大阪劇場の裏の地蔵には、線香の煙の立つことが稀になり、もう殺された娘のことも遠い昔の出来事だった。
夜は警防団員のほかに猫の子一匹通らぬ淋しい千日前だった。私は戦争のはじまる前から大阪の南の郊外に住んでいたが、もうそんな千日前は何か遠すぎた。
ところが去年の三月十三日の夜、弥生座も「花屋」も「浪花湯」も大阪劇場も「千日堂」も常盤座も焼けてしまったが、地蔵だけは焼け残った。しかし焼け残ったのがかえって哀れなようだった。
その日から十日程たって、千日前へ行くと「花屋」の主人がせっせと焼跡を掘りだしていて、私の顔を見るなり、
「わては焼けても千日前は離れまへんねん」
防空壕の中で家族四人暮しているというのである。
「――鰻の寝間みたいな狭いとこでっけど、庭は広おまっせ」
千日前一面がうちの庭だと、「花屋」の主人は以前から洒落の好きな人だった。
暫らく立ち話して「花屋」の主人と別れ、大阪劇場の前まで来ると、名前を呼ばれた。振り向くと、「波屋」の参《さん》ちゃんだった。「波屋」は千日前と難波を通ずる南海通りの漫才小屋の向いにある本屋で、私は中学生の頃から「波屋」で本を買うていて、参ちゃんとは古い馴染だった。参ちゃんはもと「波屋」の雇人だったが、その後主人より店を譲って貰って「波屋」の主人になっていた。芝本参治という名だが、小僧の時から参ちゃんの愛称で通っていた。参ちゃんも罹災したのだ。
私は参ちゃんの顔を見るなり、罹災の見舞よりも先に、
「あんたとこが焼けたので、もう雑誌が買えなくなったよ」
と言うと、参ちゃんは口をとがらせて、
「そんなことおますかいな。今に見てとくなはれ。また本屋の店を出しまっさかい、うちで買うとくなはれ。わては一生本屋をやめしめへんぜ」
と、言った。
「どこでやるの」
と、きくと、参ちゃんは判ってまっしゃないかと言わんばかしに、
「南でやりま。南でやりま」
と、即座に答えた。南というのは、大阪の人がよく「南へ行く」というその南のことで、心斎橋筋、戎橋筋、道頓堀、千日前界隈をひっくるめていう。
その南が一夜のうちに焼失してしまったことで、「亡びしものはなつかしきかな」という若山牧水流の感傷に陥っていた私は、「花屋」の主人や参ちゃんの千日前への執着がうれしかったので、丁度ある週刊雑誌からたのまれていた「起ち上る大阪」という題の文章の中でこの二人のことを書いた。しかし、大阪が焦土の中から果して復興出来るかどうか、「花屋」の主人と参ちゃんが「起ち上る大阪」の中で書ける唯一の材料かと思うと、何だか心細い気がして、「起ち上る大阪」などという大袈裟な題が空念仏みたいに思われてならなかった。
ところが、一月ばかりたったある日、難波で南海電車を降りて、戎橋筋を真っ直ぐ北へ歩いて行くと、戎橋の停留所へ出るまでの右側の、焼け残った標札屋の片店が本屋になっていて、参ちゃんの顔が見えた。
「やア、到頭はじめたね」
と、はいって行くと、参ちゃんは、
「南で新刊を扱ってるのは、うちだけだす。日配でもあんたとこ一軒だけや言うて、激励してくれてまンねん」
と言い、そして南にあった大きな書店の名を二つ三つあげて、それらの本屋が皆つぶれてしまったのに「波屋」だけはごらんの通りなっているという意味のことを、店へはいってい
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