るだしだ。
 バイオリンの天才少女の辻久子は、八つか九つの時、豆腐屋のラッパの音を聴いただけで、もう耳を押えて、ああ耳が痛い耳が痛いと泣き叫んだということである。私は辻久子ほど音というものに敏感ではないが、声の型にはいやになるくらい敏感なのか、ラジオを聴いていて、十年一日の如き紋切型に触れると、ああ耳が痛い耳が痛いと耳を押えたくなることが屡※[#二の字点、1−2−22]である。
 ことに戦争中はそれがひどかった。ラジオの情報放送を毎日毎夜聴いていた頃、私は情報の内容よりも、その紋切型が気になってならなかった。毎日やっているのだから、自然に型が出来るのは当然だし、型など構っていられないという弁解も成り立っただろうが、毎日くりかえされる同じ単語、同じ声の調子、同じ情報の型を聴いていると、うんざりさせられた。戦争が終って間もなく、ある野外音楽会の実況放送があったが、紹介の放送員はさすがに戦争中と異った型を出そうとしたらしく、「ここ何々の音楽堂の上の青空には、赤トンボが一匹スイスイと飛んでおりまして、まことに野外音楽会にふさわしい絶好の秋日和でございます」と猫撫声に変っていた。私は世の中も変ったものだと感心しながら聴いていたが、その放送中赤トンボが三度も飛ばされたのには些か閉口した。しかし放送員の新機軸は認めることにした。ところが、あとでその時の音楽会に出演した人にきくと、その日はどんより曇っていて、赤トンボなぞ一匹も飛んでいなかったということである。私は興冷めしてしまった。新機軸を出そうとした放送員は、芸もなく昔の野球放送の型を踏襲していたに過ぎなかったのだ。
 新機軸というものはむつかしい。世に新しいものはないのだろうか。声の芸術家たちは十年一日の古い紋切型の殻を脱け切れず、殻の中で畳の目を数えているような細かい上手下手にかまけているのであろう。しかしこれはただ声の芸術だけではない。美術、舞踊、文学、すべて御多分に洩れず、それぞれの紋切型があり、この型を逸れることはむつかしいのである。小説のような自由な形式の芸術でも、紋切型がある。ジェームスジョイスなどこの紋切型を破ろうとして大胆不敵な「ユリシイズ」を書いたが(「……」と彼は言った)などという月並みな文章がやはりはいっていて、何から何まで小説の約束から逸れるというわけには参らなかったようだ。詩人で劇作家で、作曲もしバンドの指揮もし、デザインをやるという奇術師のようなジャン・コクトオですら、小説を書けば極くあたり前の紋切型の小説を書いている。描写があり会話があり説明がありしめくくりがあり、ジャン・コクトオも小説となると滅茶苦茶な型破りは出来なかったのであろう。
 人生もまたかくの如し。生きて行くにはいやが応でも社会の約束という紋切型を守って行かねばならない。足で歩くのが紋切型でいやだといって、逆立ちして歩けば狂人扱いにされるのだ。極道をし尽したある老人がいつか私に、「私は沢山の女を知って来たが、女は何人変えても結局同じだ」といったことがある。「抱いてみれば、どの女の身体も同じで、性交なんて十年一日の如き古い型のくりかえしに過ぎない。変態といっても、人間が思いつく限りの変態などたかが知れていると見えて、やはり変態には変態の型がある」とその老人は語っていたが、数多くの女を知らない私にもその感想の味気なさは同感された。
 人生百般すべて紋切型があるのだ。型があるのがいけないというわけではないが、紋切型がくりかえされると、またかと思ってうんざりすることはたしかである。ベルグソンは笑の要素の一つに「くりかえし」を挙げているが、たしかにくりかえされる紋切型は笑の対象になるだろう。滑稽である。レヴュの女優の科白廻しなども、軽佻浮薄めいているからいけないというのではない。私はジンメルの日記に「人は退屈か軽佻か二つのうちの一方に陥ることなくして、一方を避けることは出来ない」という言葉を見つけた時、これあるかなと快哉を叫んだくらいだから、軽佻を攻撃する気は毛頭持ち合わせていない。レヴュ女優の科白廻しに辟易したのは、その紋切型が滑稽であったからである。ほかにもっと言い廻しようがあろうと思ったのである。しかし紋切型というものはファンに言わせると、紋切型であるために一層魅力があるのかも知れない。レヴュのファンはあの奇妙な科白廻しの型に憧れているのであろう。

      二

 レヴュ女優の紋切型に憧れて一命を落した娘がある。
 もう十年も昔のことである。千日前の大阪劇場の楽屋の裏手の溝のハメ板の中から、ある朝若い娘の屍体が発見された。検屍の結果、死後四日を経ており、暴行の形跡があると判明した。勿論他殺である。犯行後屍体をひきずって溝の中にかくしたものらしい。
 身許を調べると、両親のない娘で、伯母の家に引
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