っていた。瞳に通っていた客だから、名前まで知っていた。眉毛から眼のあたりへかけて妙に逞しい松本の顔は、かねがね重く胸に迫っていたが、いま瞳と並んで坐っているところを見ると、二人はあやしいと、疑う余地もなく頭に来た。二階へ駆けあがって二人を撲ってやろうと、咄嗟に思ったが、実行出来なかった。そして、こそこそとそこを出てしまった。
 翌日、瞳に詰め寄ると、古くからの客ゆえ誘われれば断り切れぬ義理がある。たまに活動写真《かつどう》ぐらいは交際さしたりイなと、突っ放すような返事だった。取りつく島もない気持――が一層瞳へひきつけられる結果になり、ひいては印刷機械を売り飛ばした。あちこちでの不義理もだんだんに多く、赤玉での勘定に足を出すことも、たび重なった。唇の両端のつりあがった瞳の顔から推して、こんなに落ちぶれてしまっては、もはや嫌われるのは当り前だとしょんぼり諦めかけたところ、女心はわからぬものだ。坂田はんをこんな落目にさせたのは、もとはといえば皆わてからやと、かえって同情してくれて、そしていろいろあった挙句、わてかてもとをただせばうどん屋の娘やねん。女の方から言い出して、一緒に大阪の土地をはなれることになった。
 運良く未だ手をつけていなかった無尽や保険の金が千円ばかりあった。掛けては置くものだと、それをもって世間狭い大阪をあとに、ともあれ東京へ行く、その途中、熱海で瞳は妊娠していると打ち明けた。あんたの子だと言われるまでもなく、文句なしにそのつもりで、きくなり喜んだが、何度もそれを繰りかえして言われると、ふと松本の子ではないかと疑った。そして、子供は流産したが、この疑いだけは長年育って来て、貧乏ぐらしよりも辛かった……。
 そんなことがあってみれば、松本の顔が忘れられる筈もない。げんに眼の前にして、虚心で居れるわけもない。坂田は怖いものを見るように、気弱く眼をそらした。
 それが昔赤玉で見た坂田の表情にそっくりだと、松本もいきなり当時を生々しく想い出して、
「そうか。もう五年になるかな。早いもんやな」
 そして早口に、
「あれはどうしたんや、あれは」
 瞳のことだ――と察して、坂田はそのためのこの落ちぶれ方やと、殆んど口に出かかったが、
「へえ。仲良くやってまっせ。照枝のことでっしゃろ」
 楽しい二人の仲だと、辛うじて胸を張った。これは自分にも言い聴かせた。照枝がよう尽してくれるよって、その日その日をすごしかねる今の暮しも苦にならんのや。まあ、照枝は結局僕のもんやったやおまへんか。松本はん。――と、そんな気負った気持が松本に通じたのか、
「さよか。そらええ按配や」
 と、松本は連れの女にぐっと体をもたせかけて、
「立話もなんとやらや、どや、一緒に行かへんか。いま珈琲のみに行こ言うて出て来たところやねん」
「へえ、でも」
 坂田は即座に応じ切れなかった。夕方から立って、十時を過ぎたいままで、客はたった三人である。見料一人三十銭、三人分で……と細かく計算するのも浅ましいが、合計九十銭の現金では大晦日は越せない、と思えば、何が降ってもそこを動かない覚悟だった。家には一銭の現金もない筈だ。いろんな払いも滞っている。だから、珈琲どころではないのだ。おまけに、それだけではない。顔を見ているだけでも辛い松本と、どうして一緒に行けようか。
 渋っているのを見て、
「ねえ、お行きやすな」
 雪の降る道端で永い立話をされていては、かなわないと、口をそろえて女たちもすすめた。
「はあ、そんなら」
 と、もう断り切れず、ちょっと待って下さい、いま店を畳みますからと、こそこそと見台を畳んで、小脇にかかえ、
「お待ッ遠さん」
 そして、
「珈琲ならどこがよろしおまっしゃろ。別府《ここ》じゃろくな店もおまへんが、まあ『ブラジル』やったら、ちょっとはまし[#「まし」に傍点]でっしゃろか」
 土地の女の顔を見て、通らしく言った。そんな自分が哀れだった。
 キャラメルの広告塔の出ている海の方へ、流川通を下って行った。道を折れ、薄暗い電燈のともっている市営浴場の前を通る時、松本はふと言った。
「こんなところにいるとは知らなんだな」
 東京へ行った由噂にきいてはいたが、まさか別府で落ちぶれているとは知らなんだ――と、そんな言葉のうらを坂田は湯気のにおいと一緒に胸に落した。そのあたり雪明りもなく、なぜか道は暗かった。
 照枝と二人、はじめて別府へ来た晩のことが想い出されるのだった。船を降りた足で、いきなり貸間探しだった。旅館の客引きの手をしょんぼり振り切って、行李を一時預けにすると、寄りそうて歩く道は、しぜん明るい道を避けた。良いところだとはきいてはいたが夜逃げ同然にはるばる東京から流れて来れば、やはり裏通の暗さは身にしみるのだった。湯気のにおいもなにか見知らぬ土地めいた。
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