。忘れたかったぐらいであると、松本の顔を見上げた。習慣でしぜん客の人相を見る姿勢に似たが、これが自分を苦しめて来た男の顔かと、心は安らかである筈もなかった。眼の玉が濡れたように薄茶色を帯びて、眉毛の生尻が青々と毛深く、いかにも西洋人めいた生々しい逞しさは、五年前と変っていない。眼尻の皺もなにかいやらしかった。ああ瞳は無事だった筈がないと、その頃思わせたのも皆この顔の印象から来ていた。
五年前だった。今は本名の照枝だが、当時は勤先の名で、瞳といっていた。道頓堀の赤玉にいた。随分通ったものである、というのも阿呆くさいほど今更めく。といっても、もともと遊び好きだった訳でもなかったのだ。
親の代からの印刷業で、日がな一日油とインキに染って、こつこつ活字を拾うことだけを仕事にして、ミルクホール一軒覗きもしなかった。二十九の年に似合わぬ、坂田はんは堅造だ、変骨だといわれていた。両親がなく、だから早く嫁をと世話しかける人があっても、ぷんと怒った顔をして、皮膚の色が薄汚く蒼かった。それが、赤玉から頼まれてクリスマスの会員券を印刷したのが、そこへ足を踏入れる動機となってしまったのである。
銀色の紐を通した一組七枚重ねの、葉形カードに仕上げて、キャバレエの事務所へ届けに行くと、一組分買え、いやなら勘定から差引くからと、無理矢理に買わされてしまった。帰って雇人に呉れてやり、お前行けと言うと、われわれの行くところでないと辞退したので、折角七円も出したものを近所の子供の玩具にするのはもったいない、赤玉のクリスマスいうてもまさか逆立ちで歩けと言わんやろ、なに構うもんかと、当日髭をあたり大島の仕立下ろしを着るなど、少しはめかしこんで、自身出向いた。下味原町から電車に乗り、千日前で降りると、赤玉のムーラン・ルージュが見えた。あたりの空を赤くして、ぐるぐるまわっているのを、地獄の鬼の舌みたいやと、怖れて見上げ、二つある入口のどちらからはいったものかと、暫くうろうろしていると、突如としてなかから楽隊が鳴ったので、びっくりした拍子に、そわそわと飛び込み、色のついた酒をのまされて、酔った。
会員券《カード》だからおあいそ(勘定書)も出されぬのを良いことに、チップも置かずに帰った。暫くは腑抜けたようになって、その時の面白さを想いだしていた。もともと会員券を買わされた時に捨てたつもりの金だったからただで遊んだような気持からでもあったが、実はその時の持ちの瞳のもてなしが忘れられなかったのだ。会員券にマネージャの認印があったから、女たちが押売したのとちがって、大事にすべき客なのだろうと、瞳はかなりつとめたのである。あとで、チップもない客だと、塩をまく真似されたとは知らず、己惚れも手伝って、坂田はたまりかねて大晦日の晩、集金を済ませた足でいそいそと出掛けた。
それから病みつきで、なんということか、明けて元旦から松の内の間一日も缺かさず、悲しいくらい入りびたりだった。身を切られる想いに後悔もされたが、しかし、もうチップを置かぬような野暮な客ではなかった。商業学校へ四年までいったと、うなずける固ぐるしい物の言い方だったが、しかし、だんだんに阿呆のようにさばけて、たちまち瞳をナンバーワンにしてやった。そして二月経ったが、手一つ握るのも躊躇される気の弱さだった。手相見てやろかと、それがやっとのことだった。手相にはかねがね趣味をもっていて、たまに当るようなこともあった。
瞳の手は案外に荒れてザラザラしていたが、坂田は肩の柔かさを想像していた。眉毛が濃く、奥眼だったが、白眼までも黒く見えた。耳の肉がうすく、根まで透いていた。背が高く、きりっと草履をはいて、足袋の恰好がよかった。傍へ来られると、坂田はどきんどきんと胸が高まって、郵便局の貯金をすっかりおろしていることなど、忘れたかった。印刷を請負うのにも、近頃は前金をとり、不意の活字は同業者のところへ借りに走っていた。仕事も粗雑で、当然註文が少かった。
それでも、せがまれるままに随分ものも買ってやった。なお二百円の金を無理算段して、神経痛だという瞳を温泉へ連れて行った。十日経って大阪へ帰った。瞳を勝山通のアパートまで送って行き、アパートの入口でお帰りと言われて、すごすご帰る道すうどん[#「すうどん」に傍点]をたべ、殆んど一文無しになって、下味原の家まで歩いて帰った。二人の雇人は薄暗い電燈の下で、浮かぬ顔をして公設市場の広告チラシの活字を拾っていた。赤玉から遠のこうと、なんとなく決心した。
しかし、三日経ってまた赤玉へ行くと、瞳は居らず、訊けば、今日松竹座アへ行くいうたはりましたと、みなまできかず、道頓堀を急ぎ足に抜けて、松竹座へはいり、探した。二階にいた。松本と並んで坐っていた。松本の顔はしばしば赤玉に現われていたから、見知
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