した。やがて、照枝は流産した。それが切っ掛けで腹膜になり、大学病院へ入院した。手術後ぶらぶらしているうちに、胸へ来た。医者代が嵩む一方、店は次第にさびれて行った。まるで嘘のように客が来なかった。このままでは食い込むばかりだと、それがおそろしくなりたまりかねてひそかに店を売りに出した。が、買手がつかず、そのまま半年、その気もなく毎日店をあけていた。やっと買手がついたが、恥しいほどやすい値をつけられた。
 それでも、売って、その金を医者への借金払いに使い、学生専門の下宿へ移って、坂田は大道易者になった。かねがね八卦には趣味をもっていたが、まさか本業にしようとは思いも掛けて居らず、講習所で免状を貰い、はじめて町へ出る晩はさすがに印刷機械の油のにおいを想った。道行く人の顔がはっきり見えぬほど恥しかったが、それでも下宿で寝ている照枝のことを想うと、仰々しくかっと眼をひらいて、手、手相はいかがです。松本に似た男を見ると、あわただしく首をふった。けれども松本のことは照枝にきかず、照枝も言わず、照枝がほころびた真綿の飛び出た尻当てを腰にぶら下げているのを見て、坂田は松本のことなど忘れねばならぬと思った。照枝の病気は容易に癒らなかった。坂田は毎夜傍に寝て、ふと松本のことでカッとのぼせて来る頭を冷たい枕で冷やしていた。照枝は別府へ行って死にたいと口癖だった……。
 そうして一年経ち、別府へ流れて来たのである。いま想い出してもぞっとする。着いた時、十円の金もなかったのだ。早く横になれるところをと焦っても、旅館はおろか貸間を探すにも先ず安いところをという、そんな情ない境遇を悲しんでごたごたした裏通りを野良猫のように身を縮めて、身を寄せて、さまよい続けていたのだった。
 やはり冬の、寒い夜だったと、坂田は想い出して鼻をすすった。いきなりあたりが明るくなり、ブラジルの前まで来た。入口の門燈の灯りで、水洟が光った。
「ここでんねん」
 松本の横顔に声を掛けて、坂田は今晩はと、扉を押した。そして、
「えらい済んまへんが、珈琲六人前|淹《い》れたっとくなはれ」
 ぞろぞろと随いてはいって来た女たちに何を飲むかともきかず、さっさと註文して、籐椅子に収まりかえってしまった。
 松本はあきれた。まるで、自分が宰領しているような調子ではないかと、思わず坂田の顔を見た。律気らしく野暮にこぢんまりと引きしまった
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