の三丁目、行きは良い良い帰りは怖い。と朝っぱらから唄うたが、間もなく軽部にその卑俗性を理由に禁止された。
「浄瑠璃みたいな文学的要素がちょっともあれへん」と言いきかせた。かつて彼は国漢文中等教員検定試験を受けて、落第したことがあった。それで、お君は、
 ――あはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文のいひかはし、毎夜毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼとぼうかうか身をこがす……。と、「紙治」のサワリなどをうたった。下手糞でもあったので、軽部は何か言い掛けたが、しかし満足することにした。
 ある日、軽部の留守中、日本橋の家で聞いて来たんですがと、若い男が顔を出した。
「まあ、田中の新ちゃんやないの、どないしてたの?」
 もと近所に住んでいた古着屋の息子の田中新太郎で、朝鮮の聯隊に入営していたが、除隊になって昨日帰って来たところだという。何はともあれと、上るなり、
「嫁はんになったそうやな。なんで自分に黙って嫁入りしたんや」と、田中新太郎は詰問した。かつて唇を三回盗まれたことがあり、体のことがなかったのは単に機会だったと今更口惜しがっている彼の肚の中などわからぬお君は、そんな詰問は腑に
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