うか、と多鶴子は思った。が、瞬間、豹一の痩せた頬が、眼を痛く突いて来た。
すると、もう彼女はそれが口に出せなかった。そんな言葉を想いついただけでも、なんだか気の毒になって来た。(おや、いけない!)多鶴子は思わず心の中で叫んだ。(私はこの人に同情している)
つまり、それでは、やはり豹一に心を惹かれてわざわざ会う気になったということになるのだ。
彼女は周章てて豹一から眼を離した。その拍子に、(あッ、そうだ!)と、微笑した。
(大変なことを忘れていた。この人に頼むことがあったのだわ)
尾行記のことで頼むために、わざわざ会うているのではなかったかと、彼女はまわりくどい径路を通ったあげく、やっとその結論に到達した。多鶴子はほっとして口をひらいた。
「あのう、じつはお願いがあるんですけれど……。きいていただけます? ……昨夜おっしゃってました尾行記のことですけど……」
豹一はぎくりとした。
「……無理なお願いなんですけど、書かずに置いて下さいません?」ほかに弄すべき策も見当らなかったので、多鶴子はそのように真正面から頼んでみた。
豹一は返事の仕様がなかった。いまそれを書いて来たばかしで
前へ
次へ
全333ページ中273ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング