るところを、豹一は立たされ、人力車に乗せられた。見知らぬ人が前の車に、母はその次に、豹一はいちばん後の車。一人前に車の上にちょこんと収っている姿をひねてると思ったか、車夫は、
「坊《ぼ》ん坊《ぼ》ん。落ちんようにしっかり掴まってなはれや」
その声にお君はちらりと振り向いた。もう日が暮れていた。
「落てへんわいな」と豹一はわざとふざけた声で言い、それが夕闇のなかに消えて行くのをしんみり聴いていた。ふわりと体が浮いて、人力車は走り出した。だんだん暗さが増した。ひっそりとした寺がいくつも並んだ寺町を通るとき、木犀の匂いが光った。豹一は眩暈がし、一つにはもう人力車に酔うていたのだった。それが恥しく情けなかった。梶棒の先につけた提灯の火が車夫の手の動脈を太く浮び上らせていた。尋常二年の眼で提灯に書かれた「野瀬」の二字を判読しようとしていたが、頭の血がすうすう引いて行くような胸苦しさで、困難だった。その夜、一人で寝た。
蒲団についたナフタリンの匂いが何か勝手が違って、母親のいない淋しさをしみじみ感じさせた。泣けもしなかった。小さな眼で意味もなく天井を睨んでいた。母は階下で見知らぬ人といた。野瀬
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