おい、何しているんだ? こんなところで――」
赤井は顔中に微笑の皺をつくりながら言った。思い掛けず赤井の顔を見たことで、豹一はすっかり嬉しくなった。
「町へ行こうかどうしようかと考えているんだ」
「行こうか京極、戻ろか吉田、ここは四条のアスファルトだな」と、赤井は歌うように言って、「僕も行こうと思っていたところだ。どうだ、一緒に行かんか」
「行こう」
赤井を見たので、豹一は今夜の計画が容易く実行出来ると思った。寄宿舎の横の小門を出て、電車道伝いに近衛通の方へ肩を並べて歩きながら、豹一は、
「君は何故皆んなと散歩に行かなかったんだ?」
と訊いた。すると、赤井は急に背が伸びたような歩き方になって、
「僕は寄宿舎の連中が嫌いなんだ!」吐き捨てるように言った。そして、暫く黙っていたが、ふと引攣るような微笑を顔に泛べると、
「昨日僕は寄宿舎の連中に撲られたんだ。レインコートを着ているのが生意気だというわけさ」
なるほど赤井は紫色のレインコートをいまも着ている。
「なにも三高生が黒いマントを着て、薄汚い手拭をぶら下げて、高い下駄をはいて、蛮からな声で呶鳴って、みやびやかな京の町の風情を汚さなければならないという法はないよ。だから僕はわざとレインコートを着てやったのさ。彼等の蛮カラ振りは心からのものじゃないんだ。ありゃ見栄だよ。三高生という看板をかついで歩いているだけだよ。君は帽子を被っていないね。君は良いところがあるよ」赤井は上ずった声でそう言って、僕も脱ぐよと帽子を脱いだ。赤井に真似をされたので豹一は簡単に自尊心が温まった。
荒神口の方へ道を折れて行った。赤井はなおも興奮して一人で喋った。
「彼等は郷に入れば郷に従えといいやがるんだ。それは僕も知っている。しかし、彼等が郷に従うのは彼等の無気力のためだ。彼等の保身のためだ。けちくさい虚栄心のためだ。豚でも反吐を吐く代物だ」
豹一はふと中学生時代沼井からその言葉を言われたことを想い出して、苦笑した。にわかに赤井が自分の血族のようになつかしくなって来た。あの時、自分は撲られたが、赤井も撲られたのだ! しかし府立一女の寄宿舎の前まで来ると、急に豹一の顔色が変った。
「君|金《ゲル》持ってるか」と赤井に突然訊かれたのである。豹一は此の言葉に腹を立てるべきかどうか、ちょっと思案した。秀英塾の塾生は月に一円しか小遣を支給されないことを赤井は知って、それを言ったのではなかろうか?
(俺の貧乏を嘲笑するつもりなら許さぬぞ)
しかし、赤井の次の言葉を聴いて、豹一の心はすっかり明るくなった。
「実は僕は今日はゲルが無いんだ。質に入れるものもない。此のレインコートを入れてやろうと思うのだが、これは当分着ている必要があるんだ。彼等が怖くて郷に従うたと思われては癪だからね。君持っているなら今晩のところは頼むよ」
豹一はちょっと赧くなって、
「持ってるよ」と言い、ポケットへ手を突っ込んで、なんと言うこともなしに母親が送ってくれたあの紙幣をさわって見た。
「親父が学生は金を持つと為にならんて言いやがって、ちょっとも送ってくれないから困るよ」と赤井は別に赧い顔もせずに言った。
「僕の親父は変な奴なんだ。柳左衛門という名前をつけやがったことはまあ我慢するとして、僕の中学生時代いつも教室へのこのこ参観しに来やがるんだ。すると、教師が僕に暗誦をさせるんだ。僕は親父が背後で見ていると思うと、あがってしまって、出来やしないんだ。クラスの奴等は僕の親父が来ていることを知っているから、クスクス笑いやがる。すると僕は一層あがるんだ。親父はつかつかと僕の立っている傍へ来ると、僕の背中をつつきやがるんだ。なぜ、暗誦して来ないんだって。そいつは教師の言う文句じゃないか。教師も困って変な顔をせざるを得んよ。止せば良いのに、親父め一週間も経つと、またのこのこ参観に出て来るんだ。おかげで俺は今日は親父が来やしないかと、毎日ひやひやして、ろくすっぽ教師の講義も耳にはいらなかったよ」
「三高へは来ないのか?」と、半分慰めるように豹一が訊くと、赤井は瞬間変な顔をして、
「遠いからだ」と狼狽した。ふと豹一は、あれ[#「あれ」に傍点]は赤井の父親ではないだろうかと思った。入学の宣誓式の時、生徒主事のG教授が長時間にわたって生徒の赤化に就て注意的訓話を述べたが、G教授は物凄い東北弁で、喋っていることの意味がちっとも分らなかった。G教授の訓話が終った途端、うしろの父兄席にいた一人の紳士がいきなり立ち上って、「あなた今何を喋られたのですか。お言葉の意味が少しも分らないので、生徒はじめわれわれ父兄は不安且つ迷惑である。要旨をもう一度明瞭に言っていただきたい」と顔に青筋を立てて言った。「馬鹿! 坐れ」という者もあり、笑う者もあり拍手もあった。その紳士
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