ていた。想い出すたびに、ぎゃあーと腹の底から唸り声が出て来るのだ。しかし、紀代子が自分から去ったかと考えると、否応なしにそこへ突き当らざるを得ない。
(あのために俺は嫌われたのだ)
 しかし、序でに言えば、紀代子はその時真赧になって半泣きの表情を泛べていた豹一の顔ほど、可愛いと思ったことはなかった。従兄と結婚してからも、この時の豹一の顔だけは想い出した位である。
 つまり、紀代子は卒業の、即ち結婚の日が迫って来たのだった。正式の結納品が部屋に飾られたのを見た途端、紀代子はまるであっさりと心が変ってしまった。もともと彼女は、年齢よりも老けた気持をもっており、同級生の中でもいちばん早く結婚するのを誇りにしていたのだった。言わば、それが彼女の美貌を証拠だてるというわけである。豹一の魅力を以てしても、結婚を迎える胸騒がしい彼女の気持に打ち勝つことは出来なかった。それに、もともと豹一にはたった一つの魅力が欠けていた。つまり、「手一つ握り合わなかった清い仲」だったのである。
 紀代子が結婚をするため自分と会わなくなったのだと知ると、豹一はついぞこれまで経験しなかった妙な気持になった。狂暴に空へ向って叫び上げたい衝動にかられたかと思うと、いきなり心に穴があいたようなしょんぼりした気持になったりする。まるで自分でも不思議な、情けない気持だった。彼は未だ嫉妬という言葉を知らなかった。知っていれば、もっと情けなくなったところだった。時にはうんざりした紀代子との夜歩きも、いまは他の男が「独占」しているのかと思うと、しみじみとなつかしくなるのだった。その顔も知らないのがせめてもだった。もし、行きずりにでも見たとすれば、豹一のことだから、一生記憶を去らずに悩まされたところだ。
 豹一は自分が紀代子をたいして好いていなかったことを想い出して、僅に心を慰めた。しかし、今は紀代子の体臭などが妙に想い出されて来るのだった。

      三

 谷町九丁目から生玉《いくたま》表門筋へかけて、三・九の日「榎《えのき》の夜店」の出る一帯の町と、生玉《いくたま》表門筋から上汐町六丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと七、八十あった。生玉筋から上汐町通りへ 」の字に抜けられる八十軒長屋の路地があり、また、なか七軒はさんでUの字に通ずる五十軒長屋の路地があり、入口と出口が六つあるややこしい百軒長屋もあった。二階建には四つの家族が同居していた。つまり路地裏に住む家族の方が表通りに住む家族よりも多く、貧乏人の多いごたごたした町であった。
 しかし不思議に変化の少い、古手拭のように無気力な町であった。角の果物屋は何代も果物屋をしていた。看板の字は既に読めぬ位古びていた。酒屋は何十年もそこを動かなかった。風呂屋も代替りをしなかった。比較的変遷の多い筈の薬屋も動かなかった。よぼよぼ爺さんが未だに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾っているのだった。八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店にぺたりと坐った一文菓子を売る動作も名人芸のような落着きがあった。相場師も夜逃げをしなかった。
 公設市場が出来ても、そんな町のありさまは変らなかった。普請の行われることがめったになかった。大工はその町では商売にならなかった。小学校が増築される時には、だから人々は珍らしそうに毎日普請場へ顔を見せた。立ち退きを命ぜられた三軒のうち、一家は息子を新聞配達に出し、年金で暮している隠居だったが、自分の家のまわりに板塀を釘づけられても動かなかった。小さな出入口をつけて貰ってそこから出入した。立のき料請求のためばかりではなかったのである。
 全く普請は少かった。路地の長屋では半分崩れかかった家が多かった。また壁に穴があいて、通り掛った人が家の中を覗きこめるような家もあった。しかし、大工や左官の姿も見うけられなかった。最近では寿司屋が近頃|十《テン》銭寿司が南の方で流行して商売に打撃をうけたので、息子が嫁を貰ったのを機会に、大工を一日雇って店を改造し、寿司のかたわら回転焼を売ることになったことなどが目立っている。
 ところが、野瀬安二郎が大工を五日も雇ったので、人々はあの吝嗇漢《しぶちん》[#ルビの「しぶちん」は底本では「しぶんち」]の野瀬がようもそんな気になったなと、すっかり驚かされた。転んでもただでは起きぬ野瀬のことやから、なんぞまたぼろいことを考えとるのやろと言うことになった。その通りである。
 安二郎の隣に万年筆屋が住んでいた。一間間口の小さな家だったが、代々着物のしみ抜き屋だったが、中学校を出たそこの息子の代になると、万年筆屋の修繕兼小売屋へハイカラ振って商売替えすることになり、安二郎にその資本三百円の借用を申し込ん
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