だった。
 おどろいた多鶴子の顔を想像するという消極的な残酷さを味うのがせめてもだった。
 しかし、矢倉寿司の前まで来ると、豹一はもうそんな思わせぶりな態度が続けて居れず、いきなり振り向いた。
 多鶴子と矢野は宗右衛門町の角で車を拾って、乗り込もうとしていた。ちらと多鶴子が困惑した表情を見せてこちらを向いた。さすがに豹一の心にはとっくに気がついていたのである。
「あ、待て、乗ったらいかん」
 はっきりとそんな風に言ったかどうかは、豹一には記憶がなかった。が、ともかく、矢野のあとから車に乗り込もうとするのを見て、豹一は動物的な叫び声をあげながら、駆け寄った。その時、車は走り出した。多鶴子はじっと前を見たまま、振りむきもしなかった。
 豹一はその表情に取りつく島のない気持を強いられ、なにかいまわしい想像が生々しく頭に閃いた。
「女心はわからぬものだ」月並な表現だと思う余裕もなく、豹一は思わず呟いた。
 家を出るとき、妙にそわついていた多鶴子のありさまにふと不安を感じたのは、やはり虫の知らせだったかと、豹一はわれにもあらず迷信じみた考えを抱いた。
(矢野と打ち合せしてあったにちがいない)その通りだった。
 多鶴子は偶然矢野に会うたわけではなかった。話があるから会いたいと、矢野から場所と時間を指定した手紙が来たのだった。手紙を見た途端に、多鶴子は出掛ける心が決った。豹一に済まない気がしたかどうかは、ここで述べる筋合のものでもあるまい。矢野はやはり自分から逃げていたわけでもなかったと、ともかく多鶴子は頬を燃やしたのだ。いそいそと出掛ける気になりながら豹一に済まないもないものである。因みにいえばたいていの職業をもつ女はそんなに嫌いな男でない限り、話があるといわれれば、出掛けるものである。善良な女ほどそうだ。
 話というのは、多鶴子が思った通り仕事のことであった。
「どうだね。君ひとつレコード歌手にならんかね」会うなり、矢野は事務的な口調で切り出した。
 映画界へ復帰するのは当分困難だし、といって今更もう一度キャバレエ勤めでもあるまい。
「君の声なら案外ブルース物で売り出せると思うのだが……」
「しかし……」全く経験がないから……と、多鶴子がいい出すのを、
「いや、大丈夫だよ」と矢野は押えて、「君さえその気があるなら……」
「レコード会社で使って下さるの?」
「うん。大体あらかじめの話はついているんだ。どうだ? これから会社の人に会おうじゃないか」
「ええ」
 二人はかき船を出て、車を拾った。
 そして、レコード会社の人に会いに行った――かどうかは、説明の限りではない。少くとも豹一にはどうでも良いことだった。もはや彼にとっては、たとえ多鶴子が矢野と会うたのは仕事や人気のためだとわかったところで、なんの気休めにもならないのだ。むしろ、そうだとはっきりわかれば多鶴子の肉体の悲しみにたえきれぬ想いがするところかも知れぬ。かえって、浮気心で矢野に会うていてくれる方が助かるのだった。
 豹一は悲痛な顔をして、暫く自動車の行方を見送っていたが、やがて魂の抜けたような歩き方でとぼとぼと橋の方へ引きかえした。
 橋を渡ってしまうと、あたりはぱっと明るかった。その明りで豹一は財布のなかを調べた。そして、行き当りばったりのスタンドバーでカクテルを飲んだ。
 急に酔がまわって来て、足が頭が体全体がふらついた。
 御堂筋で車を拾った。がっくりと首をたれながら、
「新世界ラジウム温泉横!」
 その言葉と同時に、シイトの上に打っ倒れて、反吐を吐いてしまった。
(あ、汚してしまった)と、後悔したが、運転手に謝る気も起らぬほど動物的な感覚に意識がしびれてしまっていた。
 ラジウム温泉の横で車を降りて、軍艦横町へふらふらとはいって行くと、ききおぼえのある声がふと耳に来た。
(土門の声だな)
 いつか一緒に行った店の暖簾をくぐると、はたして土門と北山がいた。路次まできこえるような大きな声で呶鳴っていたところを見ると、どうやら北山を掴えて議論をしていたらしかったが、土門は豹一の姿を見ると、急に話をやめて、
「や、珍客! 珍客! どないしたはりましてん? いったい、ちょっとは顔見せなはれな。いや、ここじゃないよ。社の方でっせ。――とにかくまあ一杯いこう!」上機嫌な顔を見せた。
 こんな時に思い掛けなく土門に会えたことは、なんとなくありがたい気がして、豹一はすすめられるままに、四五杯続けざまに飲んだ。
「御見事、御見事! それでいくらか血色が良うなりましたわい」
 土門が言うと、箸を無理矢理にカラーの間から背中へいれて、ぽりぽりかゆいところをかいていた北山が、
「いや、ちっとも良くなってません」恐らくさっきからの議論の仕返えしだろうか、土門に逆らうように言って、
「どうしたんです?
前へ 次へ
全84ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング