に思い泛べた表現を借りていえば、そんな風に多鶴子の「食客」となって、二週間経った。
恋をしている証拠に、豹一はもはや多鶴子以外になんの興味も感じ得なかった。もともとたいして世上百般のことに興味をもたない彼ではあったが、しかし、少くとも彼の自尊心を刺戟することに対しては情熱的に興味をもっていた。ところが、その自尊心も彼には残り少なかった。そんな風に嫉妬に苦しみながらも多鶴子を愛している以上、自尊心にははじめから兜をぬいでいたのである。
ところが、一方多鶴子の方は、それがはじめての経験ではないという点だけでも、豹一よりいくらか余裕があった。おまけに、彼女は嫉妬する必要もない。従って彼女には豹一のこと以外になお興味をもち得る余裕があった。「人気」がそれだった。
彼女は豹一との恋以外になんら為すところのない生活に漸く焦り出して来た。もし彼女が毎晩「オリンピア」へ出掛けて、くだらぬ男たちに取りまかれていたのなら、豹一と一緒にいることにほっとした救いめいたものを感じ、そうした生活に飽くこともなかったわけだが、ただ豹一とばかしいる生活では、折角の豹一の魅力も薄らいで来るのだった。豹一の魅力をほんとうに味うためには、彼女には、やはり「俗物」とまじわることが必要だった。彼女はもう一度返り咲きすることを想った。むろん、それは彼女の虚栄からばかしではなかった。ひとつには生活の資を得る手段でもあった。
しかし、ともあれ彼女が「人気」への憧れをだんだんに見せるようになったのは、豹一にとっては苦々しいことだった。その持論からいっても苦々しかったが、ひとつはなにか不安気な気持もあったのだ。
じつは、豹一は多鶴子が矢野を愛したということがどうにも我慢がならず、散々努力したあげく、多鶴子の口から、矢野とああいう関係になったのはみな人気をあげるためで、愛したおぼえは少しもないと無理に言わせて、それをまた自分に無理に思いこませて、僅かに慰めていたのである。だから、彼女がふたたび、「人気」への色気を見せたということは、そのためには彼女はなにをしでかすかもわからぬとして漠然とした不安を、豹一の心に強いる結果になったわけである。
そしてこの不安は単なる杞憂では終らなかった。
三
ある日、多鶴子は用事があると称して、ひとりで外出した。
「どんな用事」とは豹一はなぜかきけなかった。
そして、女中と二人で留守番をすることになった。
念入りに化粧して、そわそわと出て行った多鶴子の後姿を見た瞬間から、豹一の心は胸苦しく立ち騒いだ。
散らかした鏡台を跡かたづけしている女中の顔を見ていると、今しがたまでその鏡に映っていた多鶴子の顔の美しさが想い出された。その美しい顔で誰と会うているのかと思うと、彼の眉のまわりににわかにけわしい嫉妬が集って来た。
落日の最後の明りが窓硝子を去った。あたりが薄紫色に沈んでしまうと、多鶴子と離れている時間がひしひしと迫って来て、豹一の心を滅入らせた。
電燈がついた。多鶴子はまだ帰って来なかった。豹一は町へ出掛けることにした。
南海電車で難波まで来た。そこから、心斎橋筋の雑閙のなかを北の方へ歩いて行った。ついぞこれまでなかったことだが、今夜の豹一はすれ違う男たちの顔が眼について仕方がなかった。なんというおびただしい数の男だろう。その男たちのうちには、多鶴子と踊った者もいるに違いない。また、多鶴子の映画を見てひそかに不逞な想像をしていた者もいるだろう。
(おれは村口多鶴子の恋人だ!)という自負心の満足はしかしちっともなかった。それどころか、いかにもダンスをやりそうな気障な服装の男を見ると、豹一は周章てて首を振った。
戎橋の上で豹一はふと立止った。
対岸のキャバレエ「銀座会館」からジャズバンドの騒音がきこえていた。宗右衛門町の青楼の障子に人影が蠢いていた。よく見ると、芸者が客と踊っているのだった。軽薄な腰の動きが豹一の心をしめつけた。冷たい川風が吹きあげていた。
ふたたび歩き出した途端、傍をすれちがった女のコートを見て、豹一は思わず、あ、寒さを忘れてしまった。多鶴子だった。
そう気づくより前に、多鶴子の傍に並んで歩いている男の顔を、矢野だと、気がついていた。
「…………」呼ぼうと思ったが声が出ず、豹一は唇まで真蒼になった。
駆け寄って、いきなり多鶴子の顔を撲る――と、咄嗟に頭に泛んだが、実行出来ず、やっとの想いで足を引き抜くようにしながら、急いで二人の前へ抜け出ると、素知らぬ顔をつくろってゆっくりと歩き出すのが関の山だった。そんな風な下手な思わせぶりなことしか出来ないのを、さすがに悲しいと思ったが、いったん素知らぬ振りをした以上そうして歩き続けるより仕方なかった。うしろから二人が来ると思えば、背中が焼かれるよう
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