乱暴をされたことがあって以来、山谷という四十男を雇って集金に廻らせていたが、むろん山谷は手弁当で、安二郎のところで昼食すら出すことはなかった。山谷は破戒僧面をして、ひとり身だった。ある日、豹一に淫らな表情で、お君と安二郎のことに就て、きくにたえぬ話を言って聞かせた。
「如何《どない》してん? 坊《ぼ》ん坊《ぼ》ん」山谷が驚いて豹一の顔を見ると、怖いほど蒼白み、唇に血がにじみ、前歯も少し赤かった。眼がぎらぎら光って、涙をためていた。
 誇張して言えば、その時豹一の自尊心は傷ついた。人一倍傷つき易かった。なお、しょんぼりした。辱かしめられたと思い、性的なものへの嫌悪もこのとき種を植えつけられた。持前の敵愾心は自尊心の傷から膿んだ。横眼を使うことが堂に入り、安二郎を見る眼つきが変った。安二郎の背中で拳骨を振り廻した。母は毎晩安二郎の肩をいそいそ揉んだ。
 豹一は一里以上もある築港まで歩いて行き、黄昏れる大阪湾を眺めて、夕陽を浴びて港を出て行く汽船にふと郷愁を感じたり、訳もなく海に毒づいたりした。
 ある日、港の桟橋で、ヒーヒー泣き声を出したい気持をこらえて、その代り海に向って、
「馬鹿野郎」と、呶鳴った。誰もいないと思ったのが、釣をしていた男がいきなり振り向いて、
「こら、何ぬかす」そして白眼をむいている表情が生意気だと撲られた。泣きながら一里半の道を歩いて帰った。とぼとぼ来て夕凪橋の上でとっぷり日が暮れ、小走りに行くと、電燈をつけた電車が物凄い音で追い駈けて来て、怖かった。
 家へはいると、安二郎は風呂銭を節約《しまつ》しての行水で、お君は袂をたかくあげて背中を流していた。それが済むと、お君が行水し、安二郎は男だてらにお君の背中を流した。そのあと、豹一のはいる番だったが、狸寝入して、呼ばれても起きなかった。
 だんだん憂鬱な少年となり、やがて小学校を卒業した。改めてお君が中学校へ入れてくれるように安二郎に頼んだが、
「わいは知らんぜ」安二郎はとぼけて見せた。軽部が中学校の教員になりたがっていたことなども俄かに想い出されて、お君はすっかり体の力が抜けた。安二郎は豹一に算盤を教え、いずれ奉公に出すか高利の勘定や集金に使う肚らしかった。
 夜寝しな、豹一の優等免状を膝の上に拡げていつまでも見、安二郎が言ってもなかなか寝なかった。やがて物も言わずに突き膝で箪笥の方へにじり寄り、それを蔵《しま》いこむ、その腰のあたりを見ると、安二郎はおかしいほど狼狽した。お君が箪笥から自分のものを取り出して、そのまま暇を取ってしまうかと、思い込んだのである。渋々承知した。
 やがて豹一は中学校へはいったが、しかし、安二郎は懐を傷めなかった。お君はどこからか仕立物を引き受けて来て、その駄賃で豹一の学資を賄った。賃仕事だけでは追っ付かず、自分の頭のものや着物を質に入れたり、近所の人に一円、二円と小金を借りたりした。高利貸の御寮はんが他人に金を借りるのはおかしいやおまへんかと言われた。が、実は入学の時の纒った金は安二郎に借り、むろん安二郎はお君から利子をとる肚でいた。仕立物に追われて、お君の眼のふちはだんだん黝んで来た。

    第二章

      一

 中学生の豹一は自分には許嫁があるのだと言い触らした。そのためかえって馬鹿にされていると気が付く迄、相当時間が掛った。その間、自分に箔をつけたつもりで、芸もなくやに下っていたのである。
 彼は絶えず誰かに嘲笑されるだろうという恐怖を疥癬《ひぜん》のように皮膚に繁殖させていた。必要以上に肩身の狭い思いを、きょろきょろ身辺を見廻す眼の先にぶら下げていたのである。少年らしい虚栄心で、だから彼には人一倍箔をつける必要があった。おまけに入学試験の時、彼の自尊心にとっては致命傷とも言う失敗があったのだ。
 入学試験は自分の運命を試すようなものだと、彼は子供心にも異様な興奮を感じながら試験場へはいっていた。ところが余り興奮したので、ふと尿意を催した。未だ答案は全部出来ていなかった。出るわけにはいかなかった。その旨監督の教師に言って、途中で便所へ行かせて貰うことも考えたが、実行しかねた。人とは違って自分にはそんなことを要求出来ない子供だと、日頃から何か諦めていたのである。どうにも我慢が出来ず、書きかけの答案を提出して、試験場を出てしまおうか。しかし、そうすれば、落第だ。彼は下腹を押えたままじっとこらえていた。そわそわして問題の意味もろくに頭にはいらなかった。こんなことでは駄目だと、頭を敲きながら、答案用紙にしがみついていると、ふと下腹から注意が外れた。いきなり怖いような快意に身を委ねて、ええ、もうどうでもなれ。坐尿してしまった。あと周章てて答案を書き、机の上へ裏がえしに重ねて、そわそわと出て行く拍子に、答案用紙が下へ落ちた
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