すなというつまらぬ話にも、くるりくるりと眼玉をまわして、げらげら笑っていた。
豹一は側に寝そべっていたが、いきなり、つと起き上ると、きちんと両手を膝の上に並べて、村田の顔を瞶《みつ》め、何か年齢を超えて挑みかかって来る眼付きだと、村田は怖れ見た。やがて村田は自分の内気を嘲りながら、帰って行った。路地の入口で放尿した。その音を聞きながら、豹一は不安な顔でごろりと横になった。
三
豹一は早生れだから、七つで尋常一年生になった。始業式の日にもう泣いて帰ったから、お君は日頃の豹一のはにかみ屋を思い出し、この先が案じられると、訊けば、同級の男の子を三人も撲ったので教師に叱られた、ということだった。
学校での休暇時間には好んで女の子と遊んだ。少女のような体つきで、顔も色白くこぢんまり整っていたから、女教師たちがいきなり抱きしめに来た。豹一は赧い顔で逃げ、二、三日はその教師の顔をよう見なかった。身なりのみすぼらしさを恥じていたのである。一つには、可愛がられるということが身につかぬ感じで、皮膚はもう自分から世間の風に寒く当っていた。
一週間に五人ぐらい、同級の男の子が彼に撲られて泣いた。子供にしては余り笑わなかった。泣けば、自分の泣き声に聴き惚れているかのような泣き方をした。泣き声の大きさは界隈の評判だと、自分でも知っていた。ある時、何に腹立ってか、路地の井戸端にある地蔵に小便をひっ掛けた。見ている人があったので、一層ゆっくりと小便をした。お君は気の向いた時に叱った。
八つの時、学校から帰ると、いきなり仕立おろしの久留米の綿入を着せられた。筒っぽの袖に鼻をつけると、紺の匂いがぷんぷん鼻の穴にはいって来て、気取り屋の豹一には嬉しい晴着だったが、流石に有頂天にはなれなかった。お君はいつになく厚化粧し、その顔を子供心に美しいと見たが、何故かうなずけなかった。仕付糸をとってやりながら、
「向う様へ行ったら行儀ようするんやぜ」
お君は常の口調だったが、豹一は何か叱られていると聴いた。
路地の入口に人力車が三台来て並ぶと、母の顔は瞬間|面《めん》のようになり、子供の分別ながらそれを二十六の花嫁の顔と見て、取りつく島もないしょんぼりした気持になった。火の気を消してしまった火鉢の上に手をかざし、張子の虎のように抜衣紋した白い首をぬっと突き出し、じじむさい恰好で坐っているところを、豹一は立たされ、人力車に乗せられた。見知らぬ人が前の車に、母はその次に、豹一はいちばん後の車。一人前に車の上にちょこんと収っている姿をひねてると思ったか、車夫は、
「坊《ぼ》ん坊《ぼ》ん。落ちんようにしっかり掴まってなはれや」
その声にお君はちらりと振り向いた。もう日が暮れていた。
「落てへんわいな」と豹一はわざとふざけた声で言い、それが夕闇のなかに消えて行くのをしんみり聴いていた。ふわりと体が浮いて、人力車は走り出した。だんだん暗さが増した。ひっそりとした寺がいくつも並んだ寺町を通るとき、木犀の匂いが光った。豹一は眩暈がし、一つにはもう人力車に酔うていたのだった。それが恥しく情けなかった。梶棒の先につけた提灯の火が車夫の手の動脈を太く浮び上らせていた。尋常二年の眼で提灯に書かれた「野瀬」の二字を判読しようとしていたが、頭の血がすうすう引いて行くような胸苦しさで、困難だった。その夜、一人で寝た。
蒲団についたナフタリンの匂いが何か勝手が違って、母親のいない淋しさをしみじみ感じさせた。泣けもしなかった。小さな眼で意味もなく天井を睨んでいた。母は階下で見知らぬ人といた。野瀬安二郎だと、あとで判った。
野瀬安二郎は谷町九丁目いちばんの金持と言われ、慾張りとも言われた。高利貸をして、女房を三度かえ、お君は四番目の女房だった。ことし四十八歳の安二郎がお君を見染めて、縁談を取りきめるまでには、大した手間は掛らなかった。
「私《あて》でっか。私《あて》は如何《どない》でもよろしおま」
しかし、流石にお君は、豹一が小学校を卒業したら中学校へやらせてくれと条件をつけた。これは吝嗇漢《けちんぼ》の安二郎にはちくちく胸痛む条件だったが、けれどもお君の肩は余りにも柔かそうにむっちり肉づいていた。
安二郎には子供がなく、さきの女房を死なせると、直ぐ女中を雇って炊事をやらせるほか、女房の代りも時にはさせていたが、お君が来ると、途端に女中を追い出し、こんどはお君が女中の代りとなった。
「人間は節約《しまつ》せんことには、あかんネやぜ、よう聴いときや」と口癖して、一銭のお金もお君の自由に任せず、毎日の市場行きには十銭、二十銭と端金を渡し、帰ると、釣銭を出させた。ときには自分で市場へ行き、安鰯を六匹ほど買うて来て、自分は四匹、あとはお君と豹一に一匹ずつ与えた。いつか集金に行って
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