かぎ》屋のお駒や紀代子や喫茶店の女の顔が思い掛けず甘い気持で頭に泛んだ。それほど講堂のなかの空気が息苦しく思われたのだ。一刻もじっとしていられない気持で、豹一はまるで逃馬のように卒然となぐり書きして、あっという間に答案を提出してしまった。むろん、読み返しもしなかった。たとえ二人のうち一人採用されるにしても、自分は不採用に決っていると、新聞記者になることにすっかり見切りをつけてしまった。ところが、そんな風に早く提出してしまったことが、豹一に幸したのだった。
実は全部提出するまで根気よく待っていた壇上の試験係には随分気の毒な話だが、編輯長の方針では、採点する答案は最初に提出した十人だけと、あらかじめ決っているのである。そのあとから提出した答案は一束に没籠にほうり込まれてしまったのだ。どんなに良く出来た答案でも、永い時間掛って書くようなのは、新聞記者としては失格だという編輯長の意見だった。新聞記者の第一条件は、文章が早く書けるということ、しんねりむっつり文章に凝るような者やスロモーは駄目だというわけだった。
ところで、その十人の答案は大半出来がわるかった。編輯長は答案を調べながら屡※[#二の字点、1−2−22]吹きだした。編輯次長はわざわざ編輯長の部屋へ呼ばれた。
「傑作があるぜ、これどないや。Lumpen(ルンペン)を合金ペンと訳しとるねんや」
「だいぶ考えよったですな」
「まだある。やっぱり同じ男や。Platon(プラトン)はインクの名前やいうとるねや」
「文房具で流したところは、なかなか凝ってますな。まだありませんか。傑作は――」
「室内楽を麻雀やぬかしとる」
「こら良え。なるほど麻雀やったら、部屋のなかで鳴りますな」
「部屋の中の楽しみやと考えよったのやろ」
「A la mode(アラモード)に傑作がありまっしゃろ」
「あるぜ。献立表というのがある。あ、そう、そう、これはどないや。モーデの祈りとはどないや」
「新聞記者にするのは惜しいですな」
「吉本興業に頼んでやると良えな」
結局、豹一の答案がいちばん出来が良かった。たとえば、ルンペンを「独逸語で屑、襤褸の意、転じて社会の最下層にうごめく放浪者を意味する。日本では失業者の意に用う。しかしルンペンとは働く意志のない者に使うのが正しいから、たとえばこの講堂へ集った失業者はルンペンではない」と、編輯長自身にも書けない立派な答案だった。しかも皮肉ったエスプリが出ている。それに、提出の順序も一番だった。早速、豹一のところへ面会の通知が速達された。
四
豹一は他人に与える自分の印象に就いては全然自信がなかったので、面会の通知が来たときもすっかり喜び切ることは出来なかった。面会の時の印象がわるくて不採用になるかも知れないと、かなり絶望的に考えたのである。己れを知るものといえるわけだ。
実際豹一が学校にいた頃、教授達の豹一に対する批評は「態度不遜だ」ということに一致していた。しかしここで豹一のために弁解するならば彼自身教授に対して個人的に不遜な態度をとった覚えはないつもりだった。ただ、教室を軽蔑していた。そしてまた些かの未練も残さずに中途で退学してしまった。つまるところは、「光輝あるわが校の伝統を軽蔑している」ことになったのである。しかし、それにしてもある教授のように、「毛利豹一はおれを莫迦にしている」とむきになるのはいうならば余りに豹一的で、つまり些か大人気ないことではなかろうか。豹一はただ慇懃な態度が欠けていたのだ。他人に媚びることをいさぎよしとしない精神が、彼を人一倍、不遜に見せただけのことである。
ところが、銀行や商事会社なら知らず、新聞社では慇懃な態度はあまり必要とされないのである。少くとも外勤の社会部の記者には必要ではない。もっとも、社内にあって良い地位を虎視眈眈とねらっている連中ならば、たとえば編輯長の前ではあくまで慇懃であってもらいたいものだが、しかし先ず新参の見習記者には用のない話だ。面会に来て、どんな頭の下げ方をするだろうかなど、編輯長の頭には全然なかった。
「えらい威勢の良い奴ちゃな」――でも構わなかったのである。それどころか、新聞記者には威勢の良いのは、うってつけである。苛々と敏感に動く豹一の眼を見て、編輯長は、(こいつは鋭いところがあるぞ)と、すっかり気に入った。(ちょっとぐらい社のタイピストと問題を起しよっても、構へんやろ。この男前はなかなか使い道があるぞ)と、編輯長は思った。
「どんな方面の仕事が担当したいねん、言うてみ。カフェー廻りはどないや。それともダンスホールか」カフェーやダンスホールの評判記でかなりの読者を獲得している新聞だったのだ。ところが、豹一の言葉は編輯長をがっかりさせてしまった。
「僕の性質としましては、あまり人なか
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