ば、眼もあてられない。しかも、その可能性はどうやら無限大だった。女はべつに好意を示しているわけでもないと、豹一は思っていた。それどころか、どうやら軽蔑していると思われる節もある。冬空にオーバーもなしに、柄にもない喫茶店へまぎれ込んで来た男など、充分軽蔑に価する筈だ! おまけに女は歯切れの良い東京弁と来ている。
 だからこそ、握り甲斐もあるわけだと、そんな妙なことを思いついた自分を、豹一はいますっかり後悔していた。しかし、乗り掛った船だった。それが実行出来ないようでは、死んだ方がましだと、豹一は「ひるむ心に鞭あてた」気持を振い起していた。自然、声も出る。
「……九十八……」あと二つだ。
「手相を見てやろう」などといって、こそこそ握るようなやり方では駄目だぞと、豹一は咄嗟に自分に言いきかせた。
「……九十九……」
 九十九・五というのはない。ぐっしょり汗をかいた。一秒だった。
「百!」
 豹一は無我夢中で手を伸した。そして女の手を掴んだ。手は引込められようとした。豹一はあわててぐっと力を入れた。女の掌は顔に似合わず、ざらざらしていた。しかし、さすがに若い女らしい温みがあった。咄嗟のうちに、豹一はそれを感じた。女の手に急に力がはいった。それも感じた。しかし、豹一は女の顔をよう見なかった。見れば、うんざりしたところだ。女はびっくりして、随分頓間な顔をしていたからである。しかし、それも豹一のせいだ。いきなり握る――のは良いとしても、それはまるで掴むといった方が適しいほど味もそっ気もない乱暴な握り方だった。酔っぱらいでも、少し相手が女だということは、勘定に入れている筈だ。少くとも握った瞬間に、妙な骨の音なぞしない。しかし、豹一は成功の喜びに酔うていた。(おれは衆人環視のなかで此の女をものにしたのだ!)
 義務を果してしまえば、もう用のなくなった女の手を、豹一はいきなり離してしまった。他愛もないことだが、豹一にとっては、女をものにするという欲望は、この程度の簡単なことで満足されるのだった。二十歳の年頃にしては、少し慾が無さすぎるかも知れない。手を握るという義務を果せば、もうあと用事はなく、二度と会うこともあるまいなどと、まるで昆虫のようなあっけ無さである。もっとも、もし豹一がそこで女の顔を見れば、為すべきことが未だ少し残っていると思ったかも知れない。――女はぷっとふくれた顔をしていた。豹一があまり早く手を離したので、莫迦にされたと思ったのである。そんな不満な表情を見れば、豹一のことだから、嫌われたのだと早合点して、もう一度握りかえさねばと、思い直したことであろう。――しかし、もっけの倖いには、豹一はそんな無駄なことをせずに済んだ。
 銀紙の玉を投げた男がいきなり傍によって来たからである。男の手が女を退けるまえに、女は傍を離れた。その時、まるでわざとのようにルンバの曲がやんだ。レコードを仕かえるまで、少し間があった。
「あんさんとは今日こんお初にござんす……」案の定、わざとらしいはったりの仁義を掛けて来た。鼻に掛った声だった。「……野郎若輩ながら、軒下三寸を借りうけましての仁義失礼さんにござんす……」そうして、男は聴馴れぬ調子でぺらぺら喋り立てたが、再び電気蓄音機が鳴り出したので、はっきり聴きとれなかった。曲は「赤い翼」。豹一は自分が案外落着いているのを嬉しく思った。
「表へ出くされ!」柄のわるい妙な大阪訛で男がいった。これは聴き洩さなかった。聴き洩すと、恥になる。豹一は伝票を掴んで立ち上った。
 勘定を払って表へ出ると、男はしきりに洟をかみながら待っていた。蓄膿症らしい。(随分威勢のあがらぬ与太者じゃないか)豹一はその男を小馬鹿にしたくなった。男は洟をかんだあとの紙を小さく畳んで袂にいれると、鼻をクスンクスンさせながら、「随いて来い」と、言った。豹一は黙ってうなずいた。
 男は御堂筋をナンバの方へ歩きだした。ぞろりと着流しの上へ総絞りの兵児帯を結んだ男の恰好はいかにもちゃちな与太者めいていたが、歩を移すたびにその結び目が尻の上で揺れるので、うしろから見て豹一はふとおかしくなった。女のような大きな尻だった。
 御堂筋から南海通の方へ折れて行った。黙々として歩きながら、豹一はどうした訳か気持が些かも殺気立って来ないのに弱った。
 男は振り向いた。そして、
「来くされ!」はき出すように言った。
 南海通の漫才小屋の細長い路次をはいって行った。二人並んで歩けないほど狭かった。弥生座の裏手あたりまで来て、男は立ち止った。そして洟をかんだ。それが済むとねちねちした口調で言った。
「おい! お前逃げもせんと、よう随いて来たな。ええ度胸や」
「そうかね」豹一は四十男のような口を利いた。男はちょっと考えて、
「ええ度胸かなんか知らんけど、生意気な真似しやがる
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