は吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。門衛の方を覗くと、そこに自分の名前を書いた紙片が貼出されてあった。はいって自分宛の手紙を受け取った。手紙は母から来たもので、彼は塾長に知れることを警戒して、いつも学校宛に手紙を送って貰っていたのだった。案の定、五円紙幣が二枚、べったりと便箋にはりつけてあった。為替を組むことを知らないのである。お君は豹一が塾で授業料や書籍文房具代のほかは月一円の小遣しか貰っていないと知ると、内職の針仕事で儲けた金を豹一に送って来るのだった。そのため豹一は小遣には困らなかったが、そのたびに胸を刺される思いがした。
豹一はひとけの無いグラウンドに突っ立って紙幣を便箋からはがしてポケットへねじこんだ。手紙はあとで読むことにした。何か母親の手紙を読むのが怖いのである。暗くて字が読めぬのを口実にした。
グラウンドの隅に建っている寄宿舎はわりに静かだった。皆んな夕食後の散歩に出掛けたらしかった。記念祭が近づいたので誰もそわそわして落ち着かず、新入生の歓迎コンパだと称して毎晩のように京極や円山公園へ出掛けて行くらしく、その自由さが豹一には羨しかった。
ふと振り向くと、東山から月がするすると登っていた。それが豹一の若い心を明るい町の方へ誘うようだった。その左手の叡山には、ケーブルの点々と続いた灯が大学の時計台の灯よりもキラキラと光って輝いていた。校庭の桜の木は既に花が散り尽し、若葉の匂いがした。暗いグラウンドに佇んでいると、いきなり肩を敲かれた。見ると、同じクラスの赤井柳左衛門だった。赤井柳左衛門は寄宿舎にいるんだなと、途端に豹一は思った。
赤井はその名前が変挺なので、誰よりも先にクラスで存在を認められた。が、豹一はもっと違ったことで彼の存在を知った。赤井は教室でもっとも大胆に大きな声で笑う男だった。それも他の者と一緒に笑うのではなく、誰も笑わない時にいきなり大声で笑い出すのだった。例えば教師がこっそり欠伸を噛み殺しているのを見つけると、彼の笑いが皆を驚かすのだ。そのためには教師の講義もろくにノートせず、教師の動作に注意を配っている必要があるわけだと、ある日豹一は自分が笑おうとした途端に彼に先を越されて、すっかり敬服してしまったことがある。その前の日も、独逸語の時間にいきなり赤井は席を立つと、物も言わず教室を出てしまった。それで覚えていた。
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