人の眼にはましだ。しかし、学資を支給されている塾生がそれを担いで行くのは、まるで犬が自分の食器をくわえて歩いているようで浅ましく恥しい。「出資者」の好みだろうが、まるでそれは、「俺は施しを受けているのだ」という宣伝のようだった。塾生がホールへ顔出ししないということで、あいつらは聖人面の偽善者だという眼で見られていることに気が付くと、豹一はある日敢然としてホールで珈琲をのんだ。
 尚、塾生の夕飯後の散歩は一時間と限られていた。午後七時以後の外出は、だから特別の事情のない限り許されぬのである。
(この掟を破る義務があるかも知れない!)吉田山の山道を歩きながら、豹一はふとそう思った。すると、異様に体が顫えて来た。何か思い切ったことをする前のあの興奮だった。
(しかし、なぜそんな義務があるのだろうか?)
 未だそれを実行する勇気が出なかったから、彼は詭弁めいてそんな疑問を発した。偽善者と言われている他の塾生と同列に見られたくないからだろうか? それとも主人に尾を振るのがいやなためか? 塾長の機嫌を取りたくないためだろうか? ――この考えは彼の気に入った。ともあれ彼は「出資者」への感謝ということを知らぬ忘恩の徒だった。彼がこれまで感謝したのは母親にだけだった。
(そうだ!)といきなり豹一は呟いた。(俺が掟を破る義務を感ずるのは、誰もそれを破る勇気のある奴がいないからだ!)
 そう思いつくと、彼ははじめて決然として来た。京都特有の春霞のなかに、キラキラと澄んだ光で輝いている四条通の灯が山の上から眺められた。その明るい光がほのぼのとしたなつかしさで自分を呼んでいると、大袈裟に思った。
(そうだ、四条通へ行こう。あそこなら一時間では帰れぬだろう。掟を破るのはいまだ)
 豹一はその決心を示すように、白線のはいった帽子を脱いで、紺ヘルの上着のポケットへ突っ込んだ。(なんだ。こんな帽子)
 彼は塾生の誰もが三高生であることを誇りとして、銭湯へ行くのにも制帽を脱がぬのをひそかに軽蔑していたのである。人一倍虚栄心の強い豹一がそんな制帽に未練をもたぬとは、彼も相当変ったのである。しかも京都では三高の生徒位、「もてる」人種はいないのではないか。彼は腰につるしていた手拭をとってしまった。
(これはなんのまじないだ! 三高生の特権のシンボルか)
 つまり、彼はその特権が虫が好かないのだった。
 豹一
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