しまった。しかし、彼の敵愾心は最初から彼等を敵と決めていたから、憎まれてかえってサバサバと落ち着いた。美貌に眼をつけた上級生が無気味な媚で近寄って来ると、かえってその愛情に報いる術を知らぬ奇妙な困惑に陥るのだった。
 三年生の終り頃、ローマ字を書いた名を二つ並べ、同じ字を消して行くという恋占いが流行った。教室の黒板が盛んに利用され皆が公然《おおぴら》に占っているのを、除け者の豹一はつまらなく見ていたが、ふと誰もが一度は水原紀代子という名を書いているのに気がついた途端、眼が異様に光った。豹一は最も成績の悪い男を掴え、相手にはまるで何を訊こうとしているのかわからぬ廻りくどい調子で半時間も喋り立てた挙句、水原紀代子に関する二、三の知識を得た。大軌電車沿線S女学校生徒だと知ったので、その日の午後、授業をサボって周章てて上本町六丁目の大軌構内へ駈けつけた。が、余り早く行き過ぎたので、緑色のネクタイをしめたS女学校の生徒が改札口からぞろぞろ出て来るまで、二時間待った。そして、やっと紀代子の姿を見つけることが出来た。教えられた臙脂の風呂敷包と、雀斑はあるが、非常に背が高くスマートだという目印でそれと分ったのだが、そんな目印がなくとも、つんと澄まして上を向いている表情は彼女になくてかなわぬものだと、豹一は思った。げらげらと愛想の良い女なら、二時間も待つ甲斐がなかったのである。
(しかし、なにがS女学校第一の美女だ。笑わせるではないか)
 けれども、大袈裟に大阪中の中学生の憧れの的だと騒がれている点を勘定に入れて、美人だと思うことにした。一般的見解に従ったまでだが、しかし澄み切った両の眼は冷たく輝いて、近眼であるのにわざと眼鏡を掛けないだけの美しさはあった。そんな事を咄嗟の間に考えていると、紀代子は足早に傍を通り過ぎようとした。豹一は瞬間さっと蒼ざめた。話し掛ける言葉がなぜか出て来ない口惜しさだった。
(この一瞬のために二時間を失うてはならない)
 この数学的な思い付きでやっと弾みつけられて、いきなり帽子を取って、
「卒爾ながら伺いますが、あなたは水原紀代子さんですか」
 月並でない、勿体振った言い方をと二時間も考えていた末の言葉だったから、紀代子も一寸呆れた。しかし、紀代子にしてみれば、こんな事はたびたびあることだ。大して赧くもならずに、
「はあ」そして、どうせ手紙を渡すならどうぞ
前へ 次へ
全167ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング