標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。豹一は二十分程奮闘したが、結局無暴だった。鼻を警戒していたが、いつの間にか猛烈に鼻血を吹き出し、そして白い眼をむいた。それから間もなく、二学期の試験がはじまった。泡喰って問題用紙に獅噛みついているクラスの者の顔をなんと浅ましいと見た途端、いきなり敵愾心が頭をもたげて来て、ぐっと胸を突きあげた。沼井の方を見ると、沼井もしきりに鉛筆の芯をけずっているのだ。沼井は点取虫だということになっていた。
(ところが俺も点取虫と言われたことがある。沼井と同じ様に思われてたまるものか)
豹一は書きかけの答案を周章てて消した。そして、つかつかと教壇の下まで行って、提出した。余り豹一の出し方が早いので、皆はあっ気にとられて、豹一の顔を見上げた。
「なんやこれ?」監督の教師は外していた眼鏡を掛けて覗き込んだ。
「白紙です」そして、わざと後も向かず、ざまあ見ろと胸を張って、教室を出た。はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。しかしその満足がもっと完全になるまで、もう三月掛った。翌年の三月、白紙の答案を補うに充分なほどの成績を取って進級するところを見せる必要があったのである。その三月は永かった。それだけに進級した時の喜びはじっと自分ひとりの胸に秘めて置けぬほどだった。気候も良かった。桜の花も咲き初めて、生温い風が吹くのである。豹一はまるで口笛でも鳴らしたい気持で、白紙の答案を想い出した。クラスの者は当分の間彼の声をきいてもぞっとした。なかには落第した者もいるのである。
そんな風だから豹一はもう完全にクラスの者から憎まれて
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