るねん? 恋人《スーチャン》とか?」
 編輯長は思いがけぬ豹一の申出でにすっかり気を良くして、そんな冗談をいい、
「それじゃ、くれぐれもお願いいたします」
 という豹一の汗のたれるような言葉を耳に残しながら、電話を切った。途端に、編輯長は、
(あいつ村口多鶴子に頼まれよったんやろ。いま会うとるのやろ)
 若い部下のはなやかな活動を想像して、全く上機嫌だった。丁度その時土門が前借の印を求めに来たので、盲印を押してやるぐらいだった。
 電話を掛け終ると、豹一は多鶴子のところへ戻って来て、記事の発表を見合せることにした旨言った。
「ありがとう。折角お骨折りなすったのに……」
 多鶴子はそう言いながら、ふと、(結局この人は昨夜私を救うために、骨を折ってくれたということになるのだわ)と、思った。多鶴子はいきなり起ち上ると、
「ここを出ません?」朗かな声で、一緒に歩きましょうという気持を含めて、言った。
 なによりも多鶴子は、豹一が自分の言葉に感動してくれたことが嬉しかった。そして、すぐ希望以上の処置をとってくれた豹一が、多鶴子の持前の虚栄の眼からは、まるで騎士のように見えるのだった。
 昨夜彼女の自尊心をかなり傷つけた筈の、豹一の行動も、いまにして思えば、夜更という点にひどくこだわった好ましい内気さから出たものと、考えられるのだった。そして、帰りぎわの風のような素早さは、騎士のように颯爽たるものがあったと、このかつての女優は思った。
 心斎橋の雑閙を避けて、御堂筋の並木道を大丸の方へ、肩を並べて歩いて行った。柔い日射しが二人の顔にまともに降り注いだ。寝不足の豹一の眼にはその日射しが眩しかった。彼は眉の附根を寄せていた。多鶴子はライトの強烈な刺戟に馴らされていたから、そんなことはなく、豹一のその表情を見て、眉をひそめていると感違いした。つまり、不機嫌だと思ったのである。
 これは彼女の虚栄から言っても、あり得べからざることだった。彼女は豹一の心を惹きつけるべく、本能的に努力した。心斎橋まで来ると、多鶴子は、
「引きかえしましょう」と、言い、なお、「私と歩くのお嫌い?」とまで言う始末だった。
 誰が考えても、豹一は多鶴子から良い待遇をされていることになる。並んで歩いているだけでも、羨望に価するのだ。さすがに豹一はすれ違いざまにしげしげと見て行くひとびとの眼のなかに、それを読んだ。
前へ 次へ
全167ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング