きかえして行った。靴の底がすり切れて、ペタペタと情けない音を立てた。
 しかし紀代子も実は恥しい想いをしていたのである。豹一の顔が暗がりからぬっと出て来た時、紀代子は傍に立っている亭主のニキビだらけの顔を実に醜いと思った。さすがに豹一は未だ少女のような顔をしていたのである。しょんぼりしていたので、一層可憐だった。洋服がお粗末だったので、にやけて見えることも免れていた。紀代子はなんとなく豹一の手前恥しくなった。亭主の顔のことばかりでなかった。彼女は丁度ハンドバッグをねだって、「世帯が荒い。もったいない」と亭主にはねつけられていたところだった。亭主は官庁に勤めていたが、未だハンドバッグが簡単に買えるほどの月給は貰っていなかった。それが紀代子には豹一の手前ひそかに恥しかった。しかも、そのハンドバッグはたった四円八十銭ではないかと、こそこそと逃げるように立去ったが、それでは余り芸が無さ過ぎると思った。ふと振り向いた。その途端にペロリと舌を出した。女学生のような無邪気な仕草をちょっと借りてみたのは咄嗟の智慧だった。それでなんとなく世帯臭い恥しさが隠せると思ったのである。それに、ちょっとした媚態になるではないかと、紀代子は計算していた。だから一層効果的にと、長い間舌を出していた。つまりは年に似合わぬ悪どい表情だった。
 ところが豹一にはそんな紀代子の気持は分らず、紀代子の念入りの表情を見てすっかり参ってしまった。(よし、どうあっても自尊心の傷を回復しなければならぬ!)戎橋の上を通りながら、豹一は上衣のボタンを一つちぎってしまった。彼の心は朝から興奮に駆られ易い状態にあった。いきなり難波の方へ引き返した。(紀代子の顔を撲ってやる義務がある)こんな野蛮なことを考えた。電車通のゴーストップで信号を待っていると、ふと、(しかし、まさか雑閙の中で撲るわけにも行くまい)青が出て、大股で横切りながら、(いや、雑閙であることが是非必要なんだ! 効果もあるし、しかも非常な勇気が要る)

      四

 半時間ほど戎橋筋を駈けずりまわったが、紀代子の姿は見つからなかった。おかげで雑閙のなかで女の顔を撲るという不愉快なこともせずに済んだと、ほッとした。が、同時にひどく意気込んでいただけに、がっかりして諦め切れぬ気持が残った。なおも未練たらしくうろつき廻った挙句、魂の抜けたような顔をして喫茶店には
前へ 次へ
全167ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング