て、新世界へ行った。活動写真を見たりして時間を潰しているうちに夜になった。恵美須町から電車に乗り、日本橋筋一丁目の乗換場所で降りて、谷町九丁目へ行く電車を待っているうち、ふと気が変って足は千日前の方へ向いた。なんとなく家へ帰るための電車を待つ気がしなかったのである。千日前から法善寺境内にはいると、いきなり地面がずり落ちたような薄暗さであった。献納提灯や燈明の明りが寝呆けたように揺れていた。豹一はなにか暗澹とした気持になった。
 境内を出ると、貸席が軒を並べている芝居裏の横丁だった。胸に痛いようなしょんぼりした薄暗さだと思われた。
「ちょっと、ちょっと、洋さん」声掛けられて急いで通り抜けて行った。前方には光が眩しく流れていて、戎橋筋だった。その光の流れはこちらへも向うの横丁へも流れて行かず、筧を流れる水がそのまま氷結してしまったようだった。それが豹一の心に眩しかった。
 その光の中に、詳しく言えば、小間物屋の飾窓に立って、飾窓を覗いていた女が、ふと振り向いて、豹一の顔を見た途端、
「あッ」思わず同時に、声が出た。か、どうかは咄嗟のことであとから考えてみても記憶はなかったが、豹一はいきなり突っ立ったまま、暫く動けなかった。紀代子だった。薄暗いところから出て来た豹一には、紀代子が明るい光のなかにいるせいか、思い掛けず美しく見えた。それが豹一の頭に、
(俺はいま失業者だ)と不意に想い出させた。そのため、豹一は一層狼狽してしまった。貸席のある横丁からのこのこ出て来たということも、咄嗟のうちに頭にあった。
 紀代子は直ぐ視線を外らし、飾窓の前を離れて歩き出した。それで、彼女に連れがあることがはじめて分った。彼女は実に簡単に素知らぬ顔をつくっていた。
(亭主だな)豹一は途端に察した。どんな顔をしているか、見てやろうかと、覗いてみたが、極めて平凡な顔だったので、印象がはっきりしなかった。つまり紀代子の亭主は世間にざらにある若い亭主の顔をしていたのである。
 二、三間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。豹一の自尊心は簡単に傷ついた。丁度自分の身なりの貧弱さを気にしながら、おずおずとあとに随いて行きかけた矢先だったのである。紀代子の舌に噛みついてやりたいぐらいのいまいましさだったが、それが実行出来そうもなかったので、一層口惜しかった。豹一はこそこそと反対の方へ引
前へ 次へ
全167ページ中77ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング