り悄気てしまうのだった。休むわけには行かず、夜おそく新聞を畳んで、郵便局までリヤカーにのせて持って行くのだった。翌日、代休を申出る勇気もなかった。二週間打っ続けに働いて、やっと休みになると、漫才小屋へ行った。他愛もなくげらげら笑って、浅ましかった。月末になると、こともあろうにひそかに昇給を期待する顔をして、一層浅ましかった。たいして骨惜しみせずに、こつこつ働いているとわれながら感心していたぐらいだし、しかも記事など永年の経験者である社長よりも上手だったから、ひょっとしたらという気があった。しかし、やはり社長は五厘切手一枚のことにも目の色をかえる男であった。昇給どころか、豹一が原稿用紙を乱暴に無駄使いするので、口実さえつけば減俸してやりたいぐらいに思っていたのである。
(なまじっかお情けに一円ぐらい昇給させて貰って、愚劣な喜び方をするよりは、いっそ永久に昇給しない方がましだ)そう思ってみたものの、矢張り月給袋の中を見ると、なにか侮辱されたような気持がして、ひそかに社長に腹を立てた。が、そんな自分にはさすがに一層腹が立った。
(お前も随分卑俗な人間になってしまったではないか)
もはや自分が許しがたい人間になってしまったと、豹一はがっかりした。何故こんな風になったのかと考えてみたが、分らなかった。もともとはじめから、彼は働くことの面白さなどという贅沢なものを味わなかった。いきなり帯封書きだったのである。だから、毎日が実に退屈な、無気力な日々の連続であった。昇給のことでも考えているよりほかに、致方がなかったのである。彼にとって不幸なことは、彼が同僚というものを持たなかったことである。社長、園井、自分、この三人しか社にいなかったが、園井はもはや昇給のことは諦める気持を十年養って来て、いまはもっと大きな野心で、ふくれあがっている。つまり、誰も昇給のことに血眼になる者がいなかった。だから、豹一ひとり知らず知らずそんな風になってしまったのである。いわば、独立の道を切りひらいたのである。
(少しも昇給しないのは侮辱されているようなものだ)
もし、自分の周囲に昇給のことをしょっちゅう考えているものがいたら、彼はてんで昇給など問題にしなかったところである。
豹一はまる一年半、性こりもなく昇給を期待していたのである。(こんどこそ、昇給しなければここを廃めるんだぞ)そう言い聴かせてから
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