んだ。中指に桃色のペンだこが出来たのを、情けない気持で見ながら、年中帯封を書かされるのなら、やり切れぬなと思った。
(働くとはこんなに辛いものか)とすっかり驚いた気持で、しきりに無味乾燥なその仕事を続けていると、三時が来て、社長の妻君がお茶をいれてくれた。貪るように啜っていると、社長が褌一つの裸で二階から降りて来て、
「こない日が射し込んで来よったら、毛利君かなわんやろ。もう直き簾をはりこむぜ。――どないや、帯封何枚ぐらい書けた?」
「六百枚位でしょう」
「そら早い。商売人なみや」
 褒められたと思ったので、「帯封書きはえらいですね」と、微笑しながらお愛想にそう言うと、
「明日からほかの仕事してもらうぜ。月給はろて帯封書いて貰てたらうちの損や。商売人に頼んだら千枚なんぼで安う書いてくれよるネやから」
 豹一はむっとしたが、同時に助かったという気持もした。その日一日中帯封を書いて、五時過ぎ、台所で手を洗って、「そんなら、帰らせていただきます」くたくたになって帰った。
 翌朝眼を覚した時、今日も一日働くのかと思うと、怖いような気持がした。寝床の上にぼんやりと坐ったまま、なぜか紀代子や鎰屋のお駒の顔を想い泛べた。九時きっちりに出社すると、帳簿の整理をやらされた。振替郵便が来ると、入金簿へ金額、氏名、名目を記載し、もし購読料ならば購読者名簿へ購読年月日を記載し、広告掲載料ならば別の名簿へその旨書きいれる。単行本註文ならば、小包をつくり、猫間川の郵便局へ持参する。購読料が切れていると、あらかじめ印刷した催促のハガキを出す。そのたびに催促名簿へ年月日と氏名を記入し、その返事の有無をも書き込む。べつに郵便切手名簿へも「一銭五厘切手一枚、催促ハガキ用」等と書き込み、なお支出簿へも、「一銭五厘催促用支出」と記入するなど、一つの用件にたいてい三つか四つの帳簿に記入する必要があり、またその都度いろいろな印を印台から取出さねばならず、間誤ついた。
 五厘切手使うのにも、まるで官庁のように、いろいろな帳簿に記入するので、社長の吝嗇《けち》な性格がひとごとならず、情けなく思われた。何かの時に支出簿を繰っていると、社員月給支払の文字が見えたので、注意して調べてみると、三年間に三円しか昇給していなかった。豹一はなぜか顔が赧くなった。その日の午後、ハガキに間違って三銭切手を貼ったところ、社長が見つけ
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