く痩せて、顔色のわるい、六十近い貧弱な男だった。口髭を生やしているために、一層貧相に見えた。浴衣をはだけた胸は皺だらけで、静脈が目立っていた。
「僕が社長です」そう言って、籐椅子へちょこんと坐り、きょときょとした眼で豹一を見た。が、直ぐ自分から視線を外らしてしまった。
「お忙しいところを――」と豹一が言うと、
「いやもう忙しゅうて困っとりまんねん。なんしょ年が、年でっさかいな。ちょっと書き物すると、脳がのぼせてくらくらしまんねん。社員が二人いましたやが、一人は病気でやめましてん。もう一人はもううちに十年ほど居てくれてる社員でっけどな、今営業のことで出張してまんねん、編輯は僕一人でやって来ましたんやが、もうこら誰ぞに半分助けて貰わな仕様ない、こない思てあんたに頼むことになったんでんねん、どないだ? やって呉れはりまっか?」それで採用と決ったのも同然だった。
「僕に出来ることでしたら」
「いや。あんたやったら文句無しに出来ますわ。三高を途中でやめはったそうでんな。惜しいこっちゃ。兵役は? ああ、なるほど、未だ十八、さよか」
 勤務時間は午前九時から午後五時まで、月給は四十二円、賞与は年末に一回、月給の十割乃至十二割と決めたあと、社長は日本畳新聞社の業績に就いて喋ったが豹一はろくろく聴いていなかった。
 翌日九時に出社すると、いきなり郵送用の帯封へ宛名を書かされた。正午まで打っ続けに三時間書いた。購読者だけでなく、宣伝用に無料で送附する同業者の宛名も書くので、なかなか捗らなかった。一々……畳店と畳の字を入れなければならぬのだが、畳という字が画が多くてやり切れなかった。六号活字でぎっしりと詰めて印刷してある同業者名簿をながめて、しきりに溜息をつき、また柱時計を何度も見上げた。正午のサイレンが鳴るまで、四百枚書いた。
 最初決めていた枚数より少し多かったので、ちょっと気持よかったが、直ぐ無意味な快感だと、馬鹿らしい気持になった。
「お昼飯《ひる》にしとおくれやんす」
 奥座敷から妻君の声がしたので、豹一はほっとして表へ出た。勝山通八丁目まで行って、飯屋で労働者にまじって十二銭の昼食をたべたあと、喫茶店の長椅子の上で死んだようになって横たわっていた。一時になると、帰って再び帯封を書き出した。西日が射し込んで来て、じっとりと額に汗がにじんだ。右の手がまるで自分のものとも思えぬ程痛
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