るだけに、赤井は常になくぶりぶり怒っていた。ノートが無いから、勉強の仕様もなく、二人で無駄話をしていた。だんだん夜が更けて来たが、野崎が帰って来ないのでもう明日の試験は諦めようと、興奮しながら言い合っているところへ、野崎がノートを持ってしょんぼり帰って来た。もう十時過ぎていた。
「なんや、赤井、君帰ってたんか?」妙な顔をしてそう言う野崎に二人はあきれてしまった。
 訊いてみると、案の定、野崎はうっかりして約束の時間を間違えたのだった。赤井が出たあとへはいって行って、赤井はえらい遅いなと思いながら、一時間半も待っていたとのことである。一足先に帰るということも考えたが、赤井があとから来ては困ると思ったのと、一つには寒い夜道をひとりで鹿ヶ谷まで帰るのが淋しかったので、いつまでも待っていたのである。
「馬鹿だなあ。僕が来たか来なかったか、八重ちゃんに訊けば分るだろう」
 赤井はぷりぷりした。八重ちゃんが自分の来たことを野崎に言わなかったことで、なにか自尊心を傷つけられた気持もあった。が、実は野崎は殆んど毎日のように赤井と通いながら、八重ちゃんにその存在を認めて貰えぬほど、かすんでいたのである。
 いよいよノートを拡げたが、野崎のために四時間も無駄にしたかと思うと、阿呆らしくて気乗りがしなかった。
「野崎、そう悄気るなよ」と、豹一が慰めたが、野崎は虚ろな表情で、しきりに責任感に悩まされていた。そんな野崎の気持がほかの二人にも乗り移って、結局わざわざ疏水伝いに銀閣寺の停留所附近まで出掛けて、珈琲をのんだりし、ろくに勉強も出来なかった。豹一は諦めて、先に秀英塾へ帰ってしまった。野崎と赤井は出町まで足をのばして、徹夜に備えるのだと珈琲を何杯ものんだ。下宿へ帰っても、無駄話ばかりで、なんのための徹夜かわからぬありさまだった。そのため歴史の試験は散々だった。おまけにそれに気をくさらして、あとの試験も上出来とは言えなかったのである。
 だから今度の落第はかえすがえす野崎に原因していると言えば言えたのだ。が、それを自覚してすっかり気をくさらしている野崎を見ると、二人はそれには触れなかった。
 京極へ出ると、先ず「リプトン」へはいった。それから「ヴィクター」へはいった。出ると、長崎屋の二階へあがった。豹一はそのたびに、もはやここも見収めかと、さすがにしみじみとなつかしい眼で、部屋の中を見廻し
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