失していた。折角の材料も戦争が終るまで役立てることは出来ない。といってそれまで借りて置くわけにもいかなかった。
「いずれまた借りますから」と、失わないうちに、私はその公判記録を天辰の主人に返しに行くと、
「そうですか、やっぱり戦争だと書けませんか。私に書く手があれば、引っぱられてもいいから書くんだがなア」
この前より暗くなった明りの下で、天辰の主人は残念そうに言った。
五
「今も書きたいよ。題はまず『妖婦』かな」
家人を相手に言ったのは、何気なく出た冗談だったが、ふと思えば、前代未聞の言論の束縛を受けたあと未曾有の言論の自由が許された今日、永い間の念願も果せるわけだった。
しかし、公判記録を読んでからもう三年になる。三年の歳月は私の記憶を薄らいでしまった。といって、再び借りに行くとしても、天辰の店は雁次郎横丁と共に焼けてしまい、主人の行方もわからぬし、公判記録も焼失をまぬがれたかどうか、知る由もない。朧気な記憶をたよりに書けないこともないが、それでは主人公は私好みの想像の女になってしまい、下手すれば東京生れの女を大阪の感覚で描くことになろう。
夜更けの書斎で一人
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