より二つ下の二十七歳、路地長屋の爪楊枝の職人の二階を借りた六畳一間ぐらしの貧乏な育ち方をして来たが、十三の歳母親が死んだ晩、通夜にやって来た親戚の者や階下《した》の爪楊枝の職人や長屋の男たちが、その六畳の部屋に集って、嬉しい時も悲しい時もこれだすわと言いながら酔い痴れているのを、階段の登り口に寝かした母親の屍体の枕元から、しょんぼり眺めていた時、つくづく酒を飲む人間がいやらしく思った筈だのに、やがて父親の後妻にはいって来た継母との折れ合いが悪くて、自分から飛び出して芸者になると、一年たたぬ内に大酒飲みとなってしまったという。引かされて清水町で「ダイス」の店をひらいたのは二十五の歳だったが、旦那が半年で死んでしまうと、酒のあとで必ず男のほしくなる体を浮気の機会あるたびに濡らしはじめ、淫蕩的な女となった。何を思ったのか私を掴えても「わては大抵の職業《しょうばい》の男と関係はあったが文士だけは知らん」と、意味ありげに言うかと思うと、「あんたはわてを水揚げした旦那に似ている」とうっとりした眼で見つめながら、いきなり私の膝を抓るのであった。「こら何をする」と私は端たなく口走る自分に愛想をつかしながら、それでも少しはやに下って、誘われるとうかうかと約束してしまったのだが、翌日約束の喫茶店へ半時間おくれてやって来たマダムを見た途端、私はああ大変なことになったと赧くなった。芸者上りの彼女は純白のドレスの胸にピンクの薔薇をつけて、頭には真紅のターバン、真黒のレースの手袋をはめている許りか、四角い玉の色眼鏡を掛けているではないか。私はどんな醜い女とでも喜んで歩くのだが、どんな美しい女でもその女が人眼に立つ奇抜な身装《なり》をしている時は辟易するのがつねであった。なるべく彼女と離れて歩きながら心斎橋筋を抜け、川添いの電車通りを四ツ橋まで歩き、電気科学館の七階にある天文館のバネ仕掛けで後へ倚り掛れるようになった椅子に並んで掛けた時、私ははじめてほっとしてあたりに客の尠いのを喜びながら汗を拭いたが、やがて天井に映写された星のほかには彼女の少し上向きの低い鼻の頭も見えないくらい場内が真っ暗になると、この暗がりをもっけの倖いだと思った、それほど辟易していたのだ。ところが、べつの意味でもっけの倖いだったのはむしろマダムの方で、彼女は星の動きにつれて椅子のバネを利用しながらだんだん首を私の首の方へ近づけて来たかと思うと、いきなりペタリと頬をつけ、そして口に口を合わせようとした。私は起ちあがると、便所へ行った。そして手を洗ってから昇降機で一階まで降りると、いつの間に降りていたのか、マダムは一階の昇降機の入口に立って済ました顔でこちらを睨んでいた。そして並んで四ツ橋を渡り、文楽座の表まで来ると、それまでむっと黙っていた彼女は、疳高い早口の声で、
「こんど店へ来はったら、一ぺん一緒に寝まひょな」とぐんと肩を押しながら赧い顔もせずに言った。心斎橋筋まで来て別れたが、器用に人ごみの中をかきわけて行くマダムのむっちり肉のついた裸の背中に真夏の陽《ひ》がカンカン当っているのを見ながら、私はこんど「ダイス」へ行けば危いと呟いた途端、マダムは急に振り向いたが、派手な色眼鏡を掛けた彼女の顔にはなぜかうらぶれた寂しい翳があり、私もうらぶれた。
そんなことがあってみれば、その夜、ことに自作が発売禁止処分を受けて、もう当分自分の好きな大阪の庶民の生活や町の風俗は描けなくなったことで気が滅入り、すっかりうらぶれた隙だらけの気持になっている夜、「ダイス」のマダムに会うのはますます危いと私は思ったが、しかしいつの間にか私の手は青い内部《なか》の灯が映っている硝子張りの扉を押していた。途端にボックスで両側から男の肩に手を掛けていた二人の女が、「いらっしゃい」と起ち上ったが、その顔には見覚えはなく、また内部の容子が「ダイス」とはまるで違っている。あ、間違って入ったのかと、私はあわてて扉の外へ出ると、その隣の赤い灯が映っている硝子扉を押した途端、白地に黒いカルタの模様のついた薩摩上布に銀鼠色の無地の帯を緊め、濡れたような髪の毛を肩まで垂らして、酒にほてった胸をひろげて扇風機に立っていた女が、いらっしゃいとも言わず近眼らしく眼の附根を寄せて、こちらを見ると、一寸頭を下げた。それが「ダイス」のマダムの癖であった。
「今隣へはいりかけたんだよ」
「浮気者! おビール……?」
「周章者《あわてもの》と言って貰いたいね。うん、ビールだ。あはは……」
私は軽薄な笑い声を立てながら、コップに注がれたビールを飲もうとすると、マダムは私の手を押えて、その中へブランディを入れ、
「判っとうすな。ブランディどっせ」わざと京都言葉を使った。日頃彼女が「男と寝る前はブランディに限るわ」と言ったのを、私は間抜けた顔で想い
前へ
次へ
全17ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング