出し、ますます今夜は危なそうだった。赤い色電球の灯がマダムの薩摩上布の白を煽情的に染めていた。
閉店時間を過ぎていたので、客は私だけだった。マダムはすぐ酔っ払ったが、私も浅ましいゲップを出して、洋酒棚の下の方へはめた鏡に写った顔は仁王のようであった。マダムはそんな私の顔をにやっと見ていたが、何思ったのか。
「待っててや。逃げたらあかんし」と蓮葉《はすっぱ》に言って、赤い斑点の出来た私の手の甲をぎゅっと抓ると、チャラチャラと二階の段梯子を上って行ったが、やがて、
「――ちょんの間の衣替え……」と歌うように言って降りて来たのを見ると、真赤な色のサテン地の寝巻ともピジャマともドイスともつかぬ怪しげな服を暑くるしく着ていた。作業服のように上衣とズボンが一つになっていて、真中には首から股のあたりまでチャックがついている。二つに割れる仕掛になっているのかと私は思わず噴き出そうとした途端、げっと反吐がこみあげて来た。あわてて口を押え、
「食塩水……」をくれと情ない声を出すと、はいと飲まされたのは、ジンソーダだ。あっとしかめた私の顔を、マダムはニイッと見ていたが、やがてチャックをすっと胸までおろすと、私の手を無理矢理その中へ押し込もうとした。円い感触にどきんとして、驚いて汗ばんだ手を引き込めようとしたが、マダムは離さずぎゅっと押えていたが、何思ったか急に、
「ああ辛気臭《しんきくさ》ア」と私の人さし指をキリキリと噛みはじめた。痛いッと引抜いて、
「見ろ、血がにじんでるぞ。こらッ、歯型も入れたな」
そう怒りながら、しかしだらしない声を出して少しはやに下り気味の自分が、つくづく情けなくなっていると、マダムは気取った声で、
「抓りゃ紫、食いつきゃ紅《べに》よ、色で仕上げた……」云々と都々逸であった。
私は悲しくなってしまって、店の隅で黙々と洗い物をしているマダムの妹の、十五歳らしい固い表情をふと眼に入れながら、もう帰るよと起ち上ったが、よろめいて醜態であった。
「這うて帰る積り……?」その足ではと停めるのを、
「帰れなきゃ野宿するさ。今宮のガード下で……」
「へえ……? さては十銭芸者でも買う積りやな」
「十銭……? 十銭|何《なん》だ?」
「十銭芸者……。文士のくせに……」知らないのかという。
「やはり十銭漫才や十《テン》銭寿司の類《たぐい》なの?」
帰るといったものの暫らく歩けそうになかったし、マダムへの好奇心も全く消えてしまっていたわけではない。「風俗壊乱」の文士らしく若気の至りの放蕩無頼を気取って、再びデンと腰を下し、頬杖ついて聴けば、十銭芸者の話はいかにも夏の夜更けの酒場で頽廃の唇から聴く話であった。
もう十年にもなるだろうか、チェリーという煙草が十銭で買えた頃、テンセン(十銭)という言葉が流行して、十《テン》銭寿司、十《テン》銭ランチ、十銭マーケット、十銭博奕、十銭漫才、活動小屋も割引時間は十銭で、ニュース館も十銭均一、十銭で買え、十銭で食べ十銭で見られるものなら猫も杓子も飛びついたことがある。十銭芸者もまたその頃出現したものだが、しかしこの方は他の十銭何々のように全国を風靡した流行の産物ではない。十銭芸者――彼女はわずかに大阪の今宮の片隅にだけその存在を知られたはかない流行外れの職業婦人である。今宮は貧民の街であり、ルンペンの巣窟である。彼女はそれらのルンペン相手に稼ぐけちくさい売笑婦に過ぎない。ルンペンにもまたそれ相応の饗宴がある。ガード下の空地に茣蓙を敷き、ゴミ箱から漁って来た残飯を肴に泡盛や焼酎を飲んでさわぐのだが、たまたま懐の景気が良い時には、彼等は二銭か三銭の端た金を出し合って、十銭芸者を呼ぶのである。彼女はふだんは新世界や飛田の盛り場で乞食三味線をひいており、いわばルンペン同様の暮しをしているのだが、ルンペンから「お座敷」の掛った時はさすがにバサバサの頭を水で撫で付け、襟首を白く塗り、ボロ三味線の胴を風呂敷で包んで、雨の日など殆んど骨ばかしになった蛇の目傘をそれでも恰好だけ小意気にさし、高下駄を履いて来るだけの身だしなみをするという。花代は一時間十銭で、特別の祝儀を五銭か十銭はずむルンペンもあり、そんな時彼女はその男を相手に脛もあらわにはっと固唾をのむような嬌態を見せるのだが、しかし肉は売らない。最下等の芸者だが、最上等の芸者よりも清いのである。もっとも情夫は何人もいる。……
語っているマダムの顔は白粉がとけて、鼻の横にいやらしくあぶらが浮き、息は酒くさかった。ふっと顔をそむけた拍子に、蛇の目傘をさした十銭芸者のうらぶれた裾さばきが強いイメージとなって頭に浮んだ。現実のマダムの乳房への好奇心は途端に消えて、放蕩無頼の風俗作家のうらぶれた心に降る苛立たしい雨を防いでくれるのは、もはや想像の十銭芸者の破れた蛇目傘で
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