癖でんねん。それが彼女の手エでんねん。そない言うてからに、うまいこと相手の同情ひきよりまんねんぜ。ほら昨夜《ゆうべ》従兄弟がどないやとか、こないやとか言うとりましたやろ、あれもやっぱり手エだんねん。なにが彼女に従兄弟みたいなもんおますかいな。ほんまにあんた、警戒せなあきまへんぜ」
警戒とは大袈裟な言い方だと、私はいささかあきれた。
「ところで、彼女は僕のこと如何《どない》言うとりました? 悪い男や言うとりましたやろ? 焼餅やきや言うてしまへんでしたか。どうせそんなことでっしゃろ。なにが、僕が焼餅やきますかいな。彼女の方が余っ程焼餅やきでっせ。一緒に道歩いてても、僕に女子の顔見たらいかん、こない言いよりまんねん。活動見ても、綺麗な女優が出て来たら、眼エつぶっとれ、とこない言いよりまんねん。どだい無茶ですがな。ほんまにあんな女子にかかったら、一生の損でっせ。そない思いはれしまへんか」
じっと眼を細めて、私の顔を見つめていたが、それはそうと、とまた言葉を続けて、
「石油どないだ(す)? まだ、飲みはれしまへんか。飲みなはれな。よう効くんでっけどな。ちょっとも毒なことおまへんぜ」
その時、脱衣場の戸ががらりとあいた。
「あ、来よりました」
男はそう私の耳に囁いて、あと、一言も口を利かなかった。
部屋に戻って、案外あの夫婦者はお互い熱心に愛し合っているのではないか、などと考えていると、湯殿から帰って来た二人は口論をやり出した。
襖越しにきくと、どうやら私と女が並んで歩いたことを問題にしているらしく、そんなことで夫婦喧嘩されるのは、随分迷惑な話だと、うんざりした。
夕飯が済んだあと、男はひとりで何処かへ出掛けて行ったらしかった。私は療養書の注意を守って、食後の安静に、畳の上に寝そべっていた。
虫の声がきこえて来た。背中までしみ透るように澄んだ声だった。
すっと、衣ずれの音がして、襖がひらいた。熱っぽい体臭を感じて、私はびっくりして飛び上った。隣室の女がはいって来たのだった。
「お邪魔やありません?」
襖の傍に突ったったまま、言った。
「はあ、いいえ」
私はきょとんとして坐っていた。
女はいきなり私の前へぺったりと坐った。膝を突かれたように思った。この女は近視だろうか、それとも、距離の感覚がまるでないのだろうかと、なんとなく迷惑していると、
「いま、ちょっと出掛けて行きましたの」
その隙に話しに来た、――そんなことをされては困ると思った。私はむつかしい顔をした。
女はでかい溜息をつき、
「あの男にはほんまに困ってしまいます」
と、言って分厚い唇をぎゅっと歪めた。
「――あの人、なんぞ私のこと言いましたか。どうせ私の悪ぐち言うたことやと思います。それがあの人の癖なんです。誰にでも私の悪ぐちを言うてまわるのんです。なんせ肚の黒い男ですよって、なにを言うか分れしません。けど、あんな男の言うこと信用せんといて下さい。何を言うても良え加減にきいといて下さい」
「いや、誰のいうことも僕は信用しません」
全く、私は女の言うことも男の言うことも、てんで身を入れてきかない覚悟をきめていた。
「それをきいて安心しました」
女は私の言葉をなんときいたのか、生真面目な顔で言った。私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。
そして、私もこの女の前で一度も微笑したことはない……。
女はますます仮面《めん》のような顔になった。
「ほんまに、あの人くらい下劣な人はあれしませんわ」
「そうですかね。そんな下劣な人ですかね。よい人のようじゃありませんか」
その気もなく言うと、突然女が泪をためたので驚いた。
「貴方《おうち》にはなにも分れしませんのですわ。ほんまに私は不幸な女ですわ」
うるんだ眼で恨めしそうに私をにらんだ。視線があらぬ方へそれている。それでますます恨めしそうだった。
私は答えようもなく、いかにも芸のなさそうな顔をして、黙っていた。
すると、女の唇が不気味にふるえた。そして大粒の泪が蒼黝い皮膚を汚して落ちて来た。ほんとうに泣き出してしまったのだ。
私は頗る閉口した。どういう風に慰めるべきか、ほとほと思案に余った。
女は袂から器用に手巾をとりだして、そしてまた泣きだした。
その時、思いがけず廊下に足音がきこえた。かなり乱暴な足音だった。
私はなぜかはっとした。女もいきなり泣きやんでしまった。急いで泪を拭ったりしている。二人とも妙に狼狽してしまったのだ。
障子があいて、男がやあ、とはいって来た。女がいるのを見て、あっと思ったらしかったが、すぐにこにこした顔になると、
「さあ、買うて来ましたぜ」
と、新聞紙に包んだものを、私の前に置いた。罎のようだったから、訳がわからず、変な顔をしていると、男は上機嫌に、
「石油だ(す)。石油だす。停留場の近所まで行《い》て、買うて来ましてん。言うだけやったら、なんぼ言うたかてあんたは飲みなはれんさかい、こら是が非でも膝詰談判で飲まさな仕様ない思て、買うて来ましてん。さあ、一息にぱっと飲みなはれ」
と、言いながら、懐ろから盃をとりだした。
「この寸口《ちょく》に一杯だけでよろしいねん。一日に、一杯ずつ、一週間も飲みはったら、あんたの病気くらいぱらぱらっといっぺんに癒ってしまいまっせ。けっ、けっ、けっ」
男は女のいることなぞまるで無視したように、まくし立て、しまいには妙な笑い声を立てた。
「いずれ、こんど……」
機会があったら飲みましょうと、ともかく私は断った。すると、男は見幕をかえて、
「こない言うても飲みはれしまへんのんか。あんた!」
きっとにらみつけた。
その眼付きを見ると、嫉妬深い男だと言った女の言葉が、改めて思いだされて、いまさきまで女と向い合っていたということが急に強く頭に来た。
「しかし、まあ、いずれ……」
曖昧に断りながら、ばつのわるい顔をもて余して、ふと女の顔を見ると、女は変に塩垂れて、にわかに皺がふえたような表情だった故、私はますます弱点を押さえられた男の位置に坐ってしまった。莫迦莫迦しいことだが、弁解しても始まらぬと、思った。男の無理強いをどうにも断り切れぬ羽目になったらしいと、うんざりした。
しかし、なおも躊躇っていると、
「これほど言うても、飲んでくれはれしまへんか」
と男が言った。
意外にも殆んど哀願的な口調だった。
「飲みましょう」
釣りこまれて私は思わず言った。
「あ、飲んでくれはりまっか」
男は嬉しそうに、罎の口をあけて、盃にどろっとした油を注いだ。変に薄気味わるかった。
「あ、蜘蛛!」
不意に女が言って、そして本を読むような味もそっけもない調子で、
「私蜘蛛、大きらいです」
と、言った。
だが、私はそれどころではなかった。私の手にはもう盃が渡されていたのだ。
「まあ、肝油や思て飲みなはれ。毒みたいなもんはいってまへんよって、安心して飲みなはれ。けっ、けっ、けっ」
男は顔じゅう皺だらけに笑った。
私はその邪気のなさそうな顔を見て、なるほど毒なぞはいっているまいと思った。
そして、眼を閉じて、ぷんと異様な臭いのする盃を唇へもって行き、一息にぐっと流し込んだ。急にふらふらっと眩暈《めまい》がした咄嗟に、こんな夫婦と隣り合ったとは、なんという因果なことだろうという気持が、情けなく胸へ落ちた。
翌朝、夫婦はその温泉を発った。私は駅まで送って行った。
「へえ、へえ、もう、これぐらい滞在なすったら、ずっと効目はござりやんす」
駅のプラットホームで客引きが男に言っていた。子供のことを言っているのだな、と私は思った。
「そやろか」
男は眼鏡を突きあげながら、言った。そして、売店で買物をしていた女の方に向って、
「糸枝!」
と、名をよんだ。
「はい」
女が来ると、
「もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い」
「はい」
女はいきなりショールをとって、長ったらしい挨拶を私にした。終ると、男も同じように、糞丁寧な挨拶をした。
私はなにか夫婦の営みの根強さというものをふと感じた。
汽車が来た。
男は窓口からからだを突きだして、
「どないだ(す)。石油の効目は……?」
「はあ。どうも昨夜から、ひどい下痢をして困ってるんです」
ほんとうのことを言った。
「あ、そら、いかん。そら、済まんことした。竹の皮の黒焼きを煎じて飲みなはれ。下痢にはもってこいでっせ」
男は狼狽して言った。
汽車が動きだした。
「竹の皮の黒焼きでっせ」
男は叫んだ。
汽車はだんだんにプラットホームを離れて行った。
「竹の皮の黒焼きでっせ」
男の声は莫迦莫迦しいほど、大きかった。
女は袂の端を掴み、新派の女優めいた恰好で、ハンカチを振った。似合いの夫婦に見えた。
底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日初版発行
1995(平成7)年3月20日第3版
初出:「大阪文学」
1942(昭和17)年1月号
入力:奥平 敬
校正:小林繁雄
2008年11月16日作成
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