よくしなければいけないんです」
 すると、女の顔に思いがけぬ生気がうかんだ。
「やっぱり御病気でしたの。そやないかと思てましたわ。――ここですか」
 女は自身の胸を突いた。なぜだか、いそいそと嬉しそうであった。
「ええ」
「とても痩せてはりますもの。それに、肩のとこなんか、やるせないくらい、ほっそりしてなさるもの。さっきお湯で見たとき、すぐ胸がお悪いねんやなあと思いましたわ」
 そんなに仔細に観察されていたのかと、私は腋の下が冷たくなった。
 女は暫らく私を見凝めるともなく、想いにふけるともなく捕えがたい視線をじっと釘づけにしていたが、やがていきなり歪んだ唇を痙攣させたかと思うと、
「私の従兄弟が丁度お宅みたいなからだ恰好でしたけど、やっぱり肺でしたの」
 膝を撫でながらいった。途端に、どういうものか男の顔に動揺の色が走った。そして、ひきつるような苦痛の皺があとに残ったので、びっくりして男の顔を見ていると、男はきっとした眼で私をにらみつけた。
 しかし、彼はすぐもとの、鈍重な、人の善さそうな顔になり、
「肺やったら、石油を飲みなはれ。石油を……」
 意外なことを言いだした。
「えッ?」
 と、訊きかえすと、
「あんた、知りはれしまへんのんか。肺病に石油がよう効くということは、今日《きょう》び誰でも知ってることでんがな」
「初耳ですね」
「さよか。それやったら、よけい教え甲斐がおますわ」
 肺病を苦にして自殺をしようと思い、石油を飲んだところ、かえって病気が癒った、というような実話を例に出して、男はくどくどと石油の卓効に就いて喋った。
「そんな話迷信やわ」
 いきなり女が口をはさんだ。斬り落すような調子だった。
 風が雨戸を敲いた。
 男は分厚い唇にたまった泡を、素早く手の甲で拭きとった。少しよだれが落ちた。
「なにが迷信や。迷信や思う方がどだい無智や。ちゃんと実例が証明してるやないか」
 そして私の方に向って、
「なあ、そうでっしゃろ。違いまっか。どない思いはります?」
 気がつくと、前歯が一枚抜けているせいか、早口になると彼の言葉はひどく湿り気を帯びた。
「…………」
 私は言うべきことがなかった。すると、もう男はまるで喧嘩腰になった。
「あんたも迷信や思いはりまっか、そら、そうでっしゃろ。なんせ、あんたは学がおまっさかいな。しかし、僕かて石油がなんぜ肺にきくかちゅうことの科学的根拠ぐらいは知ってまっせ。と、いうのは外やおまへん。ろくろ首いうもんおまっしゃろ。あの、ろくろ首はでんな、なにもお化けでもなんでもあらへんのでっせ。だいたい、このろくろ首いうもんは、苦界に沈められている女から始まったことで、なんせ昔は雇主が強欲で、ろくろく女子《おなご》に物を食べさしよれへん。虐待しよった。そこで女子は栄養がとれんで困る。そこへもって来て、勤めがえらい。蒼い顔して痩せおとろえてふらふらになりよる。まるでお化けみたいになりよる。それが、夜なかに人の寝静まった頃に蒲団から這いだして行燈の油を嘗めよる。それを、客が見て、ろくろ首や思いよったんや。それも無理のないとこや。なんせ、痩せおとろえひょろひょろの細い首しとるとこへもって来て、大きな髪を結うとりまっしゃろ。寝ぼけた眼で下から見たら、首がするする伸びてるように思うやおまへんか。ところで、なんぜ油を嘗めよったかと言うと、いまもいう節で、虐待されとるから油でも嘗めんことには栄養の取り様《よ》がない。まあ、言うたら、止むに止まれん栄養上の必要や。それに普通の冷たやつやったら嘗めにくいけど行燈の奴は火イで温くめたアるによって、嘗めやすい。と、まあ、こんなわけだす。いまでも、栄養不良の者《もん》は肝油たらいうてやっぱり油飲むやおまへんか。それ考えたら、石油が肺に効くいうたことぐらいは、ちゃんと分りまっしゃないか。なにが迷信や、阿呆らしい」
 女はさげすむような顔を男に向けた。
 私は早々に切りあげて、部屋に戻った。
 やがて、隣りから口論しているらしい気配が洩れて来た。暫らくすると、女の泣き声がきこえた。男はぶつぶつした声でなだめていた。しまいには男も半泣きの声になった。女はヒステリックになにごとか叫んでいた。
 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なので、あきれていると、女の歌声もまじり出した。私はますますあきれた。そこへ夕飯がはこばれて来た。
 電燈をつけて、給仕なしの夕飯をぽつねんと食べていると、ふと昨夜の蜘蛛が眼にはいった。今日も同じ襖の上に蠢いているのだった。
 翌朝、散歩していると、いきなり背後《うしろ》から呼びとめられた。
 振り向くと隣室《となり》の女がひとりで大股にやって来るのだった。近づいた途端、妙に熱っぽい体臭がぷんと匂った。
「お散歩ですの?」
 女はひそめた声で訊いた。そして私の返事を待たず、
「御一緒に歩けしません?」
 迷惑に思ったが、まさか断るわけにはいかなかった。
 並んで歩きだすと、女は、あの男をどう思うかといきなり訊ねた。
「どう思うって、べつに……。そんなことは……」
 答えようもなかったし、また、答えたくもなかった。自分の恋人や、夫についての感想をひとに求める女ほど、私にとってきらいなものはまたと無いのである。露骨にいやな顔をしてみせた。
 女はすかされたように、立ち止まって暫らく空を見ていたが、やがてまた歩きだした。
「貴方《おうち》のような鋭い方は、あの人の欠点くらいすぐ見抜ける筈でっけど……」
 どこを以って鋭いというのかと、あきれていると、女は続けて、さまざま男の欠点をあげた。
「……教養なんか、ちょっともあれしませんの。これが私の夫ですというて、ひとに紹介も出来《でけ》しませんわ。字ひとつ書かしても、そらもう情けないくらいですわ。ちょっとも知性が感じられしませんの。ほんまに、男の方て、筆蹟をみたらいっぺんにその人がわかりますのねえ」
 私はむかむかッとして来た、筆蹟くらいで、人間の値打ちがわかってたまるものか、近頃の女はなぜこんな風に、なにかと言えば教養だとか、筆蹟だとか、知性だとか、月並みな符号を使って人を批評したがるのかと、うんざりした。
「奥さんは字がお上手なんですね」
 しかし、その皮肉が通じたかどうか、顔色も声の調子も変えなかった。じっと前方を見凝めたまま相変らず固い口調で、
「いいえ、上手と違いますわ。この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです。ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと、なんやこう、悩みや苦しみがみな忘れてしまえるみたい気イしますのんで、私好きです。貴方なんか、きっとお習字上手やと思いますわ。お上手なんでしょう? いっぺん見せていただきたいわ」
「僕は字なんかいっぺんも習ったことはありません。下手糞です。下品な字しか書けません」
 しかし、女は気にもとめず、
「私、お花も好きですのん。お習字もよろしいですけど、お花も気持が浄められてよろしいですわ。――私あんな教養のない人と一緒になって、ほんまに不幸な女でしょう? そやから、お習字やお花をして、慰めるより仕方あれしません。ところが、あの人はお習字やお花の趣味はちょっともあれしませんの」
「お茶は成さるんですか」
「恥かしいですけど、お茶はあんまりしてませんの。是非教わろうと思てるんですけど。――ところで、話ちがいますけど、貴方《おうち》キネマスターで誰がお好きですか?」
「…………」
「私、絹代が好きです。一夫はあんまり好きやあれしません。あの人は高瀬が好きや言いますのんです」
「はあ、そうですか」
 絹代とは田中絹代、一夫とは長谷川一夫だとどうやらわかったが、高瀬とは高瀬なにがしかと考えていると、
「貴方《おうち》は誰ですの?」
「高瀬です」
 つい言った。
「まあ」
 さすがに暫らくあきれていたようだったが、やがて、
「高瀬はまあええとして、あの人はまた、○○○が好きや言うんです。私、あんな下品な女優大きらいです。ほんまに、あの人みたいな教養のない人知りませんわ」
 私はその「教養」という言葉に辟易した。うじゃうじゃと、虫が背中を這うようだった。
「ほんまに私は不幸な女やと思いますわ」
 朝の陽が蒼黝い女の皮膚に映えて、鼻の両脇の脂肪を温めていた。
 ちらとそれを見た途端、なぜだか私はむしろ女があわれに思えた。かりに女が不幸だとしても、それはいわゆる男の教養だけの問題ではあるまいと思った。
「何べん解消しようと思ったかも分れしまへん」
 解消という言葉が妙にどぎつく聴こえた。
「それを言いだすと、あの人はすぐ泣きだしてしもて、私の機嫌とるのんですわ。私がヒステリー起こした時は、ご飯かて、たいてくれます。洗濯かて、せえ言うたら、してくれます。ほんまによう機嫌とります。けど、あんまり機嫌とられると、いやですねん。なんやこう、むく犬の尾が顔にあたったみたいで、気色がわるうてわるうてかないませんのですわ。それに、えらい焼餅やきですの。私も嫉妬《りんき》しますけど、あの人のは、もっとえげつないんです」
 顔の筋肉一つ動かさずに言った。
 妙な夫婦もあるものだ。こんな夫婦の子供はどんな風に育てられているのだろうと、思ったので、
「お子さんおありなんでしょう?」
 と、訊くと、
「子供はあれしませんの。それで、こうやってこの温泉へ来てるんです。ここの温泉にはいると、子供が出来るて聞きましたので……」
 あっ、と思った。なにが解消なもんかと、なにか莫迦にされているような気がした。
 いつか狭霧が晴れ、川音が陽の光をふるわせて、伝わって来た。女のいかつい肩に陽の光がしきりに降り注いだ。男じみたいかり肩が一層石女を感じさせるようだと、見ていると、突然女は立ちすくんだ。
 見ると隣室の男が橋を渡って来るのだった。向うでも見つけた。そして、いきなりくるりと身をひるがえして、逃げるように立ち去ってしまった。ひどくこせこせした歩き方だった。それがなにかあわれだった。
 女は特徴のある眇眼を、ぱちぱちと痙攣させた。唇をぎゅっと歪めた。狼狽をかくそうとするさまがありありと見えた。それを見ると、私もまた、なんということもなしに狼狽した。
 やがて女は帯の間へさしこんでいた手を抜いて、不意に私の肩を柔かく敲いた。
「私を尾行しているのんですわ。いつもああなんです。なにしろ、嫉妬《りんき》深い男ですよって」
 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。
 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っていたのか、隣室の男がさきに湯殿にはいっていた。
 ごろりとタイルの上に仰向けに寝そべっていたが、私の顔を見ると、やあ、と妙に威勢のある声とともに立ち上った。
 そして、私のあとから湯槽へはいって来て、
「ひょっとしたら、ここへ来やはるやろ思てました」
 と、ひどく真面目な表情で言った。それでは、ここで私を待ち伏せていたのかと、返事の仕様もなく、湯のなかでふわりふわりからだを浮かせていると、いきなり腕を掴まれた。
「彼女はなんぞ僕の悪ぐち言うてましたやろ?」
 案外にきつい口調だった。けれど、彼女という言い方にはなにか軽薄な調子があった。
「いや、べつに……」
「嘘言いなはれ。隠したかてあきまへんぜ。僕のことでなんぞ聴きはりましたやろ。違いまっか。僕のにらんだ眼にくるいはおまっか。どないだ(す)? 聴きはれしめへんか。隠さんと言っとくなはれ」
 ねちねちとからんで来た。
 私は黙っていた。しかし、男は私の顔を覗きこんで、ひとりうなずいた。
「黙ったはるとこ見ると、やっぱり聴きはったんやな。――なんぞ僕のわるいことを聴きはったんやろ。しかし、言うときまっけどね。彼女の言うことを信用したらあきまへんぜ。あの女子《おなご》は嘘つきですよってな。わてはだまされた、わては不幸な女子や、とこないひとに言いふらすのが彼女の
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