に、
「石油だ(す)。石油だす。停留場の近所まで行《い》て、買うて来ましてん。言うだけやったら、なんぼ言うたかてあんたは飲みなはれんさかい、こら是が非でも膝詰談判で飲まさな仕様ない思て、買うて来ましてん。さあ、一息にぱっと飲みなはれ」
 と、言いながら、懐ろから盃をとりだした。
「この寸口《ちょく》に一杯だけでよろしいねん。一日に、一杯ずつ、一週間も飲みはったら、あんたの病気くらいぱらぱらっといっぺんに癒ってしまいまっせ。けっ、けっ、けっ」
 男は女のいることなぞまるで無視したように、まくし立て、しまいには妙な笑い声を立てた。
「いずれ、こんど……」
 機会があったら飲みましょうと、ともかく私は断った。すると、男は見幕をかえて、
「こない言うても飲みはれしまへんのんか。あんた!」
 きっとにらみつけた。
 その眼付きを見ると、嫉妬深い男だと言った女の言葉が、改めて思いだされて、いまさきまで女と向い合っていたということが急に強く頭に来た。
「しかし、まあ、いずれ……」
 曖昧に断りながら、ばつのわるい顔をもて余して、ふと女の顔を見ると、女は変に塩垂れて、にわかに皺がふえたような表情だった故、私はますます弱点を押さえられた男の位置に坐ってしまった。莫迦莫迦しいことだが、弁解しても始まらぬと、思った。男の無理強いをどうにも断り切れぬ羽目になったらしいと、うんざりした。
 しかし、なおも躊躇っていると、
「これほど言うても、飲んでくれはれしまへんか」
 と男が言った。
 意外にも殆んど哀願的な口調だった。
「飲みましょう」
 釣りこまれて私は思わず言った。
「あ、飲んでくれはりまっか」
 男は嬉しそうに、罎の口をあけて、盃にどろっとした油を注いだ。変に薄気味わるかった。
「あ、蜘蛛!」
 不意に女が言って、そして本を読むような味もそっけもない調子で、
「私蜘蛛、大きらいです」
 と、言った。
 だが、私はそれどころではなかった。私の手にはもう盃が渡されていたのだ。
「まあ、肝油や思て飲みなはれ。毒みたいなもんはいってまへんよって、安心して飲みなはれ。けっ、けっ、けっ」
 男は顔じゅう皺だらけに笑った。
 私はその邪気のなさそうな顔を見て、なるほど毒なぞはいっているまいと思った。
 そして、眼を閉じて、ぷんと異様な臭いのする盃を唇へもって行き、一息にぐっと流し込んだ。急にふらふらっと眩暈《めまい》がした咄嗟に、こんな夫婦と隣り合ったとは、なんという因果なことだろうという気持が、情けなく胸へ落ちた。
 翌朝、夫婦はその温泉を発った。私は駅まで送って行った。
「へえ、へえ、もう、これぐらい滞在なすったら、ずっと効目はござりやんす」
 駅のプラットホームで客引きが男に言っていた。子供のことを言っているのだな、と私は思った。
「そやろか」
 男は眼鏡を突きあげながら、言った。そして、売店で買物をしていた女の方に向って、
「糸枝!」
 と、名をよんだ。
「はい」
 女が来ると、
「もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い」
「はい」
 女はいきなりショールをとって、長ったらしい挨拶を私にした。終ると、男も同じように、糞丁寧な挨拶をした。
 私はなにか夫婦の営みの根強さというものをふと感じた。
 汽車が来た。
 男は窓口からからだを突きだして、
「どないだ(す)。石油の効目は……?」
「はあ。どうも昨夜から、ひどい下痢をして困ってるんです」
 ほんとうのことを言った。
「あ、そら、いかん。そら、済まんことした。竹の皮の黒焼きを煎じて飲みなはれ。下痢にはもってこいでっせ」
 男は狼狽して言った。
 汽車が動きだした。
「竹の皮の黒焼きでっせ」
 男は叫んだ。
 汽車はだんだんにプラットホームを離れて行った。
「竹の皮の黒焼きでっせ」
 男の声は莫迦莫迦しいほど、大きかった。
 女は袂の端を掴み、新派の女優めいた恰好で、ハンカチを振った。似合いの夫婦に見えた。



底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日初版発行
   1995(平成7)年3月20日第3版
初出:「大阪文学」
   1942(昭和17)年1月号
入力:奥平 敬
校正:小林繁雄
2008年11月16日作成
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