り仕方あれしません。ところが、あの人はお習字やお花の趣味はちょっともあれしませんの」
「お茶は成さるんですか」
「恥かしいですけど、お茶はあんまりしてませんの。是非教わろうと思てるんですけど。――ところで、話ちがいますけど、貴方《おうち》キネマスターで誰がお好きですか?」
「…………」
「私、絹代が好きです。一夫はあんまり好きやあれしません。あの人は高瀬が好きや言いますのんです」
「はあ、そうですか」
 絹代とは田中絹代、一夫とは長谷川一夫だとどうやらわかったが、高瀬とは高瀬なにがしかと考えていると、
「貴方《おうち》は誰ですの?」
「高瀬です」
 つい言った。
「まあ」
 さすがに暫らくあきれていたようだったが、やがて、
「高瀬はまあええとして、あの人はまた、○○○が好きや言うんです。私、あんな下品な女優大きらいです。ほんまに、あの人みたいな教養のない人知りませんわ」
 私はその「教養」という言葉に辟易した。うじゃうじゃと、虫が背中を這うようだった。
「ほんまに私は不幸な女やと思いますわ」
 朝の陽が蒼黝い女の皮膚に映えて、鼻の両脇の脂肪を温めていた。
 ちらとそれを見た途端、なぜだか私はむしろ女があわれに思えた。かりに女が不幸だとしても、それはいわゆる男の教養だけの問題ではあるまいと思った。
「何べん解消しようと思ったかも分れしまへん」
 解消という言葉が妙にどぎつく聴こえた。
「それを言いだすと、あの人はすぐ泣きだしてしもて、私の機嫌とるのんですわ。私がヒステリー起こした時は、ご飯かて、たいてくれます。洗濯かて、せえ言うたら、してくれます。ほんまによう機嫌とります。けど、あんまり機嫌とられると、いやですねん。なんやこう、むく犬の尾が顔にあたったみたいで、気色がわるうてわるうてかないませんのですわ。それに、えらい焼餅やきですの。私も嫉妬《りんき》しますけど、あの人のは、もっとえげつないんです」
 顔の筋肉一つ動かさずに言った。
 妙な夫婦もあるものだ。こんな夫婦の子供はどんな風に育てられているのだろうと、思ったので、
「お子さんおありなんでしょう?」
 と、訊くと、
「子供はあれしませんの。それで、こうやってこの温泉へ来てるんです。ここの温泉にはいると、子供が出来るて聞きましたので……」
 あっ、と思った。なにが解消なもんかと、なにか莫迦にされているような気がした。
 いつか狭霧が晴れ、川音が陽の光をふるわせて、伝わって来た。女のいかつい肩に陽の光がしきりに降り注いだ。男じみたいかり肩が一層石女を感じさせるようだと、見ていると、突然女は立ちすくんだ。
 見ると隣室の男が橋を渡って来るのだった。向うでも見つけた。そして、いきなりくるりと身をひるがえして、逃げるように立ち去ってしまった。ひどくこせこせした歩き方だった。それがなにかあわれだった。
 女は特徴のある眇眼を、ぱちぱちと痙攣させた。唇をぎゅっと歪めた。狼狽をかくそうとするさまがありありと見えた。それを見ると、私もまた、なんということもなしに狼狽した。
 やがて女は帯の間へさしこんでいた手を抜いて、不意に私の肩を柔かく敲いた。
「私を尾行しているのんですわ。いつもああなんです。なにしろ、嫉妬《りんき》深い男ですよって」
 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。
 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っていたのか、隣室の男がさきに湯殿にはいっていた。
 ごろりとタイルの上に仰向けに寝そべっていたが、私の顔を見ると、やあ、と妙に威勢のある声とともに立ち上った。
 そして、私のあとから湯槽へはいって来て、
「ひょっとしたら、ここへ来やはるやろ思てました」
 と、ひどく真面目な表情で言った。それでは、ここで私を待ち伏せていたのかと、返事の仕様もなく、湯のなかでふわりふわりからだを浮かせていると、いきなり腕を掴まれた。
「彼女はなんぞ僕の悪ぐち言うてましたやろ?」
 案外にきつい口調だった。けれど、彼女という言い方にはなにか軽薄な調子があった。
「いや、べつに……」
「嘘言いなはれ。隠したかてあきまへんぜ。僕のことでなんぞ聴きはりましたやろ。違いまっか。僕のにらんだ眼にくるいはおまっか。どないだ(す)? 聴きはれしめへんか。隠さんと言っとくなはれ」
 ねちねちとからんで来た。
 私は黙っていた。しかし、男は私の顔を覗きこんで、ひとりうなずいた。
「黙ったはるとこ見ると、やっぱり聴きはったんやな。――なんぞ僕のわるいことを聴きはったんやろ。しかし、言うときまっけどね。彼女の言うことを信用したらあきまへんぜ。あの女子《おなご》は嘘つきですよってな。わてはだまされた、わては不幸な女子や、とこないひとに言いふらすのが彼女の
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