げやせんよ。書きゃいいんだろう」
しかし振り向いて、私だと判ると、
「――なんだ、君か。いつ来たの?」
「罐詰ですか」
「到頭ひっくくって連れて来やがった。逃げるに逃げられんよ。何しろエレヴェーターがきゃつらの前だからね。――ああ眠い」
欠伸をして、つるりと顔を撫ぜた。昨夜から徹夜をしているらしいことは、皮膚の色で判った。
橙色の罫《けい》のはいった半ぺらの原稿用紙には「時代の小説家」という題と名前が書かれているだけで、あとは空白だった。私はその題を見ただけで、反動的ファッショ政治の嵐の中に毅然として立っている小説家の覚悟を書こうとしている評論だなと思った。このような原稿を伏字なしに書くには字句一つの使い方にも細かい神経を要する。武田さんが書き悩んでいるわけもうなずけるのだった。
「僕がおっては邪魔でしょう」
と、出ようとすると、
「いや、居ってくれんと淋しくて困るんだ。なアに書きゃいいんだ」
と、引きとめた。しかし、話はしようとせず、とろんと疲れた眼を放心したように硝子扉の方へ向けていたが、やがて想いがまとまったのか、書きはじめたが、二行ばかり書くと、すぐ消して、紙をまるめてしまった。
そして、新しい紙にへのへのもへのを書きながら、
「書きゃいいんだろう。書きゃ……」
と、ひとり言を言っていた。書き悩んでいるというより、どうしても書きたくないと、駄々をこねているみたいだった。
Aさんがはいって来た。
「どうです。書けましたか」
「書けるもんか。ビールがあれば書けるがね。――たのむ、一本だけ!」
指を一本出して、
「――この通りだ」
手を合わせた。
「だめ、だめ! 一滴でもアルコールがはいったら最後、あなたはへべれけになるまで承知しないんだから折角ひっくくって来たんだから、こっちはあくまで強気で行くよ。その代り、原稿が出来たら、生ビールでござれ、菊正でござれ、御意のままだ。さア、書いた、書いた」
「一本だけ! 絶対に二本とは言わん。咽が乾いて困るんだ。脳味噌まで乾いてやがるんだ。恩に着るよ。たのむ! よし来たッといわんかね」
「だめ!」
「じゃ、十分だけ出してくれ、一寸外の空気を吸って来ると、書けるんだ。ものは相談だが、どうだ。十分! たった十分!」
「だめ! 出したら最後、東西南北行方知れずだからね、あんたは」
「あかんか」
大阪弁になっていた。
「あかん。今夜中に書いて貰わんと、雑誌が出んですからね。あんたの原稿だけなんだ」
「火野はまだだろう?」
「いや、今着きましたよ」
「丹羽君は……?」
「K君がとって来た。百枚ですよ」
「じゃ、僕のは無くてもいけるだろう。来月にのばしちゃえよ」
「だめ! あんたが書くまで、僕は帰らんからね」
「泊り込みか。ざまア見ろ」
Aさんは笑いながら出て行った。
「書きゃいいんだろう、書きゃア」
武田さんはAさんの背中へ毒づいていたが、やがて机の上にうつ伏したかと思うと、鼾をかき出した。
死んだような寝顔だったが、獣のような鼾だった。
ところが、半時間ばかりたつと、武田さんははっと眼を覚して、きょとんとしていたが、やがて何思ったのか、白紙のままの原稿用紙を二十枚ばかり封筒に入れると、
「さア、行こう」
と、起ち上って出て行った。随いて行くと、校正室へはいるなり、
「出来た!」
と、封筒をAさんに突き出して、
「――出来たらいいんだろう。あとは知らねえよ。エヘヘ……」
不気味に笑っていた。
「どうもお骨折りでした」
Aさんはにこにこして、封筒の中から原稿を取り出そうとした。
途端に武田さんは私の手を引っ張って、エレヴェーターに乗った。
白紙の原稿を見たAさんがあっと驚いた時は、エレヴェーターは動いていた。
「あれ、あれッ!」
Aさんの声はすぐ聴えなくなった。
エレヴェーターを降りると、武田さんはさア逃げようと尻をまくって、はしった。そして、どこをどうはしったか、やっとおでん屋を見つけて、暖簾をくぐると、
「ビール! ビール!」
腰を掛ける前から呶鳴《どな》っていた。
一本のビールは瞬く間だった。
「うめえ、うめえ、これに限る」
二本目のビールを飲み出した途端、Aさんがのそっとはいって来て、ものも言わず武田さんの傍に坐った。
武田さんはぎょっとしたらしかったが、急にあきらめたように起ち上り、
「勘定!」
袂へ手を突っ込んだが、財布が見つからぬらしい。
「――おかしいね。落したのかな」
そう言いながら、だんだん入口の方へ寄って行ったかと思うと、いきなり逃げ出した。
「あッ! こらッ武麟」
Aさんはあわててあとを追った。
私はぽかんとして、二人のあとを見送っていた。暫く待っていたが、二人は帰って来なかった。
それから二週間ばかりして、改造
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