円でも譲らないと言ったあの時計だ。
「これはいくらだ?」
 買う気もなくきくと、
「二円五十銭にしときましょう」
「たったの……?」
 私は立ったまま尻餅ついていた。
 早速買った。いそいそとして買ったのである。そして、その時計を小包にして武田さんに送るという思いつきにソワソワしながら、おそくまで夜店をぶらついていた。私は二円五十銭で買ったが、武田さんのことだから二円ぐらいで神田の夜店あたりで買ったのではないかと思うとキャッキャッとうれしかった。五円札を二つに千切って運転手に渡したという話も、もしかしたら武田さんの飛ばそうとしているデマではないかと思うと、一層ゆかいだった。
 帰ってまず手紙を書こうと思った。男同志の恋文――言葉はおかしいが、手紙の中で一番たのしいのは、これだ。だから書いていると、つい長くなる。あまり長くなりそうだから、手紙はよして、小包だけにすることにしたがしかし、時計を送る小包というのはどうも作り方がむずかしい。それに、ふと手離すのが惜しくなって、――というのは、私もまた武田さんの驥尾《きび》に附してその時計を机の上にのせて置きたくて、到頭送らずじまいになってしまった。
 九月の十日過ぎに私はまた上京した。武田さんを訪問すると、留守だった。行方不明だという。上京の目的の半分は武田さんに会うことだった。
 雑誌社へきけば判るだろうと思い、文芸春秋社へ行き、オール読物の編輯をしているSという友人を訪ねると、Sはちょうど電話を掛けているところだった。
「もしもし、こちらは文芸春秋のSですが、武田さん……そう、武麟さんの居所知りませんか。え、なに? あなたも探しておられるんですか。困りましたなア」
 終りの方は半泣きの声だった。――私は改造社へ行った。改造の編輯者は大日本印刷へ出張校正に行ってみんな留守だった。
 改造社を出ると空車が通りかかったので、それに乗って大日本印刷へ行った。四階でエレヴェーターを降りると、エレヴェーターのすぐ前が改造の校正室だった。
 はいって行くと、きかぬ先に、
「武田さん来てますよ」
 と、Aさんが言った。
「えッ? どこに……」
「向うの部屋に罐詰中です」
 教えられた部屋は硝子張りで、校正室から監視の眼が届くようになっていた。
 武田さんは鉛の置物のように、どすんと置かれていた。
 ドアを押すと、背中で、
「大丈夫だ。逃
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